西の善き魔女4 世界のかなたの森 荻原規子 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)王室|近衛《こ の え》連隊 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)特権階級のかたがた[#「かたがた」に傍点] ------------------------------------------------------- [#ここから2字下げ]  目  次 第一章 あかがね色の髪の乙女 第二章 魔術師の弟子 第三章 影の王国  あとがき [#ここで字下げ終わり] [#地付き]口絵・挿画 牛島慶子   [#地付き]カット   和瀬久美   [#改ページ]    第一章 あかがね色の髪の乙女      一  首都メイアンジュリーの三つの丘に橋をわたす、グラールの心臓、ハイラグリオン。丈高い宝冠に似た王宮の構えを中心とする、白大理石の美の驚異は、詩人の讃歌にあるとおり、大陸をあまねく見わたしても比類するものがない。  森の緑に映えるハイラグリオンが歌にたたえられているが、この場所が一年でもっとも華やぐのは、むしろ冬のさなかだった。国土の隅々からえりぬきの人々がここに結集し、また、あまたの小国家から名だたる大使が|伺候《し こう》し、コンスタンス現女王陛下のもと、あらたまの年を祝うのだ。  冬至の前後十二夜は、冬枯れの斜面にそびえ立つハイラグリオンが、長い夜を徹して|燦然《さんぜん》ときらめきわたる時だった。これこそはグラールの繁栄のあかし、女王国の国力と技量の、他国にぬきんでる優位を示すものと言えた。  そうした冬の日には、環状をした宮殿に立ち並ぶ塔のそれぞれに、主要な貴族の入城を示す紋章旗が、あますところなくひるがえっている。港側でひときわ目をひく旗は、剣と三ツ星の盾《たて》を縫いとった青色旗——北部の雄と謳《うた》われるルアルゴー伯ロウランドの旗だった。  その塔の一室で、十六歳の少女フィリエルが、金色の彫り物をした化粧台をのぞきこんでいた。一点のくもりなく磨かれた鏡からは、小さなあごをした妖精めいた顔が、生《き》まじめな面《おも》もちで見つめ返している。  フィリエル・ディーはこの日、王宮に個室をもつ貴婦人がすべてそうしたように、おのが美しさを注意ぶかく点検したのではなかった。琥珀色の瞳には、今ここにいない人物が映っていた。  不思議といえば不思議だが、フィリエルは、博士の弟子をセラフィールドで始終目にしていたころよりも、ルーンがフィリエルのもとを去っていった今になって、彼のちょっとした身ぶりや表情を、驚くほど鮮やかに思い出せるようになった。少し意識をぼんやりさせるだけで、無愛想な黒髪の少年を、目の前にいるように描くことができた。  うれしいのにうれしくないふりをするルーンの顔と、普通の人ならうれしがるのにうれしがらないルーンの顔とでは、同じしかめっ面でも微妙なところが異なっている。また、われを忘れて没頭するルーンの無表情と、おもしろくないときにする無表情とでは、鋭い目で見ればわずかに差があるのだ。  ようするに、すべての場面でルーンは|仏頂面《ぶっちょうづら》なのだが——その愛想のなさで点を落とすのだが——めったに笑わず、うちとけず、顔立ちのわりに美少年に見えない彼のことが、フィリエルになら、いつでも子細に読みとけるような気がするのだった。 (きっと見つけてみせる……)  ルーンがリイズ公の暗殺者であるかないかは、フィリエルにはどうでもいいことだった。博士の弟子は、離れるべきでないところから離れた。それだけは、フィリエルが修正しなければならない。  徐々に視線がさだまり、ようやく少女に、赤金色の髪を波うたせた自分が見えてきた。フィリエルは首をひとふりすると、髪を無造作につかみ、よく切れるハサミを押し当てた。 「だめ——っ!」  悲鳴のような声が後ろで響き、思わずたじろいだとき、部屋に飛びこんできたマリエ・オセットが、抱きついて彼女をとりおさえた。 「はやまらないで! まだ花も実もある若い身空《み そら》なのよ!」 「……あのねえ、マリエ……」  フィリエルはげんなりした声を出した。 「自殺しようとしたわけではないのよ。髪を切るだけよ」 「何を言っているのよ。その髪を切るなんて、自殺に等しい悪いことよ。磨いた銅みたいな、夜会の照明にひときわ映《は》えるあなたの髪、どんな染料でもまねができないと、宮廷でも評判をとったというのに。トレードマークを切り落としたら、あなたの取り柄がなくなってしまうじゃないの」  マリエは真剣だったが、フィリエルはおもしろくなかった。 「悪かったわね。わたくしには、髪の毛くらいしか取り柄がなくて」 「あら、お嬢様。髪を切ったら美人でなくなるなどとは、このマリエ、少しも申し上げておりませんわ」  マリエは急に侍女らしい言葉づかいになったが、すぐにもとへもどってしまった。 「でも、あなたが当たり前の美人でない、フィリエルらしいところは、その暖かい髪の色なのよ。いったいどういう了見なの。そんなもったいないことをしなくても、南へ旅することはできるでしょうに」  フィリエルはしぶしぶ答えた。 「決心を固めたかったのよ。それに、ロウランドの奥方様のおっしゃるところでは、南方の旅は危険がつきまとうから、男装していったほうが無難ですって。正体を隠して旅するなら、目立つこの髪はじゃまになるばかりだし、切ったほうがよほど手っとり早いもの」 「手っとり早い?」  マリエは、教育係のセルマのように鼻をならした。 「淑女がなんて言葉を。きちんと結《ゆ》って帽子を被れば、たいがいのことはすみます。メリング先生の弟子の扮装《ふんそう》で、もう経験ずみでしょう」  フィリエルの口調はあわれっぽくなった。 「ねえ、わかってちょうだい。これからの旅は、ときには野宿もするだろうし、簡単にお風呂にも入れないし、身なりに細かく気づかっている余裕はないのよ。わたくしが髪を結うのへたなこと、マリエも知っているくせに。他に結ってくれる人がいるわけでもなし」 「それなら、このわたしが、出発まで結い方の特訓をしてさしあげます」  マリエはおごそかに告げ、フィリエルはうめいた。 「ああ、星女神様。あちらでもこちらでも特訓ばっかり」  思わず笑ってしまい、マリエはたずねた。 「奥方様は、そんなにあなたをしごいていらっしゃるの?」  フィリエルは悲しげにうなずいた。 「つけ焼き刃で、身につくものとも思えないのだけど。レイディ・マルゴットはユーシス様のこととなると、目の色が変わってしまわれるのね。わたくしは母を知らないから、母親とはああいうものだと、初めて知ったような気がするわ」 「見かけによらなかったわね。わたしたちも子どもを産めば、そういう気持ちがわかるものなのかしら」  マリエは考え深げに言った。それからあらためてフィリエルを見つめた。 「奥方様はあなたのこと、好きになったのね。期待をかけられるのはいいことだわ。あなたがうまくやりとげて、奥方様の采配でハイラグリオンに返り咲くことに、わたしはまだ望みをつないでいるのよ」  静かだがきっぱりと、フィリエルは首をふった。 「それはとても無理よ。マリエ、悪いけれど」  マリエは少し黙ってから、肩をすくめた。 「それでも、この先何がおきるかわからないもの。希望は捨てないでおくわ。ねえ、ルーンに会うつもりなら、ますますその髪を切ってはだめよ。髪の短いあなたを見たら、あの人、ふだんに増して不機嫌になるわよ」 「そんなことないわよ」  反射的にフィリエルは言い返した。  髪が長くても短くても、ルーンがフィリエルに対する考えを改めるはずがない。フィリエルが美人かどうかを、かつてルーンが気にしたことがあっただろうか。  しかし、よく思い返してみると、ルーンはフィリエルがどんな服を着ても、それが新調の服であればうろんな顔をした。フィリエルに美的なものを求めないだけに、深い理由はどこにもないまま保守的なのである。  鏡を見なおしたフィリエルは、マリエの視線を避けるようにして、軽くせき払いした。 「でも——やっぱり、切らないことにする」  |叙勲《じょくん》や任官を含む、新年の華々しい行事が|目白《め じろ》押しに続くなかに、この年最も衆目を集めるものの一つとして、女王陛下がユーシス・ロウランドに竜退治の騎士たる任命を与える典礼があった。グラールでは十七年ぶりのことだった。  二十歳をすぎたばかりの、ゆえに、前回の悲劇を記憶することのないロウランド家の|御曹司《おんぞうし 》が、見るからに若々しい、のびやかな姿で衆前に進み出ると、人々はわいた。そして、|荘重《そうちょう》な典礼が進行し、この若者に王家の|銘《めい》を刻んだ竜退治の槍《やり》が|下賜《かし》されると——もっとも、壇上に立つのは代行のメニエール|猊下《げいか 》だったが、宮廷人は女王陛下がお出ましにならないことには慣れはじめていた——彼らはこの日生まれた竜騎士を、嵐の|歓呼《かんこ 》で迎えた。  当のユーシスには、少しも気負ったところがなかった。彼はリラックスして儀式に臨んでおり、悲壮な覚悟のほどなど少しも見せなかったが、そのことがかえって、年寄りの涙腺を刺激するものではあったようだ。多くの若い女性も涙でハンカチをぬらしたが、こちらはたぶん興奮のしすぎだった。  伝統の騎士として真紅の裏打ちのマントをまとうユーシスと、彼につき従う純白のマントのロット・クリスバードは、たしかに淑女たちの感嘆に値した。容姿に優れた若い騎士たちは、いつの時代も女性たちにもっとも愛されるものだ。王宮に咲くどんな花より散りいそぐ、その高潔さゆえに。  彼らの勇姿に酔いしれることができないのは、たぶん、近親の女性たちだけだったろう。彼女たちにとっても、ひときわ誇らしいことには違いなかったが、隣りあわせの死を忘れるほど、有頂天になれるものではなかったのだ。 (それにしても……)  レイディ・マルゴットの部屋へ向かいながら、フィリエルは心の内につぶやいた。 (奥方様がこれほど肩入れしてくださるとは、正直いって思っていなかったな……)  伯爵夫人が伝授しようとする、彼女の広範な知識によれば、カグウェルは非常に温暖な国で、常緑の森がおい茂り、一年をつうじて気温は北国の夏にも匹敵するらしい。だが、凍死する心配がなくても、野宿の危険は北よりも大きかった。竜の出没はもちろん、毒蛇に毒トカゲに毒虫と、暖かい地方特有のやっかいな生き物で満ちあふれているからだ。  加えて風土病があり、小国にありがちの不安定な政権があり、さらには森に出没する山賊の存在など、夫人のあげる注意リストは、延々きりもなく続くのだった。  伯爵夫人は今日も、最上階の紫にけぶる自室でフィリエルを待っていた。落ち着いたバラ色の部屋着をまとい、ビロードの椅子の肘掛けにもたれた夫人は、少女が部屋に入ったときには、手鏡をかかげて一人もの思わしげに見入っていた。  だが、フィリエルに気づくと、彼女はそれをサイドテーブルに静かに置き、肩すかしをかけるような口調で言った。 「そろそろ前言を撤回《てっかい》したければ、そうしてかまわないのですよ。あなたの申し出は、あなたの無邪気さが言わせたということ、わたくしはとうに承知していましたからね」 「撤回しません」  伯爵夫人に瞳をすえて、フィリエルは答えた。 「奥方様が、わたくしをたよりないとお思いなのはよく存じています。でも、南へ行く決心は変わりませんし、南へ行ったなら、ユーシス様のお役に立ちたいと思う気持ちも変えられません」  夫人は、むきになった少女をやんわりなだめた。 「あなたは頭のよい子です。今では、もうのみこめているはずです。これからの旅は、北に育ったあなたには、身の安全さえおぼつかないことが。それでも心を変えませんか? 生半可《なまはんか 》な決心ではできないことなのですよ」 「必要ならば、命を賭けてみせます」  固い口調でフィリエルが言うと、レイディ・マルゴットは探るように見つめた。だが、少女はたじろぐことがなかった。 「以前アデイルは、ルーンのために、危険をかえりみずにドリンカムへ行ってくれたことがありました。ですから今度は、わたくしがカグウェルへ行く番なんです」  レイディ・マルゴットは、紫水晶の指輪に目を落とし、その石にさわりながら吐息まじりに言った。 「若い人はときおり、無意味とわかっていながら死に向かって突進することがあります。まっすぐな若者ほど起こりがちで、往々にして、仲間だけでは歯止めがきかぬものなのです。だからこそ、あなたを派遣することに意味があると感じたのですが。たぶん——わたくしはただの、過保護でおろかな母親なのでしょうね」 「精一杯のことをします。たとえ、たよりにしていただけなくても」  たのみこむようにフィリエルが言うと、伯爵夫人はうなずいた。 「あなたの決意を尊重します。でも、あなた一人を南へ行かせるのは、やはり無謀なことだと思います。ユーシスの無事をうんぬんする以前に、あなた自身がどうかなってしまわないよう、優秀な補佐をつけるのでなくては」 (補佐……?)  フィリエルは、思わずいやな顔をしてしまった。伯爵夫人のお目付役をつれて南へ行くとは、思ってもみないことだった。あれこれおもしろくないことになりそうだ。 「あのう、奥方様。それはあまり……」  口ごもりながら言いはじめるフィリエルに、夫人は涼しい顔で告げた。 「もう、この場に呼びよせているのですよ」  レイディ・マルゴットが、奥を仕切っている花鳥模様のカーテンへ目をやったので、フィリエルはあわてて口をつぐんだ。 「こちらへいらっしゃい。もう顔を見せてもよろしいのよ」  夫人の声に応えてカーテンが揺れ、さっそうと歩み出た者がいた。細身の若者かとも思えたが、よく目をこらせば背の高い娘だった。赤茶色の束ね髪、灰青の瞳、隙のない身ごなし。青いサテンの男ものを着ており、優雅に一礼する様子には、端正な若者と変わるところがない。 「お久しぶりです、フィリエル。お元気そうでなによりです」  息の止まってしまったフィリエルは、かろうじてその名を押し出した。 「——イグレイン」  フィリエルが三ヶ月ほどしか在籍しなかった、トーラス女子修道院付属学校。それでも彼女の名を呼ぶと、思い出が鮮やかによみがえってきた。イグレインは、記憶のなかでもひときわ輝く少女だった。フィリエルの剣術の師匠であり、トーラス生徒会を相手どった挑戦劇の、果敢な同志の一人だったのだ。 「あなたが、どうしてここに……」  イグレインは、学年としてはフィリエルの一つ下であり、今もまだトーラスで学業を続けているはずなのだ。  イグレインは落ち着きはらってほほえんだ。 「フィリエル、あらためての自己紹介をさせてください。イグレイン・バーネットともうします。母の家名はメロール。レイディ・マルゴットの御実家であられるメロール家は、わたくしの母の実家でもあるのです」 「そうだったの……」  女学校内では身分や家名が伏せられるため、以前には知り得ないことだった。だが、不思議なめぐりあわせと言うこともできない。トーラスに来る生徒は、大なり小なり有力貴族に縁故をもつものなのだ。  レイディ・マルゴットが、にこやかに口をはさんだ。 「イグレインには、本来まだ課業が残っているのですが、依頼を快くひきうけてくれたのですよ。彼女は、わたくしから見ても優秀な|姪《めい》です。あなたがどれほど世間知らずでも、この子が気をつければ、なんとか南の旅をのりきることができるでしょう」  フィリエルは、困惑してイグレインを見上げた。 「そんなことをして、かまわないの?」  イグレインは軽くうなずいた。 「あなたがトーラスを去ってからも、あなたのことはよく思い出していました。並みの女の子ではないと、何度も思ったのはたしかですが、伯母上から内々のお話があって、初めて納得がいきました。女王家の血をひくかただったとは。わたくしは、自分の幸運が信じられませんでしたよ」 「幸運だなんて」  フィリエルは身をすくめた。そんなふうに言われるのは、かえっていたたまれなかった。 「思い違いをしているわ、イグレイン。わたくしは王籍にも入っていないし、自分の血筋を公表することもできないの。わたくし自身、十五の歳まで何も知らずに暮らしていた、ただの女の子なのよ。わたくしを助けることで、何か女王家の|褒賞《ほうしょう》があると思ったら、とんでもないまちがいよ」  イグレインは動揺のない目で見つめた。 「それについては、伯母上から充分にお聞きしました」 「もっとよく聞いてみて。奥方様はきっと、あなたをトーラスから出向かせるために、不利になる話はなさらなかったに違いないから。わたくしが南へ行くのは、自分の都合で勝手にすることなの。こんなわたくしのお供になるのは、どう考えても貧乏くじよ。命の保証もないし……帰ってこられるかどうかもわからないし」  必死になって言うフィリエルに、イグレインは再びほほえんだ。 「あなたがそう言うなら、たぶんそうなのでしょう。でも、お気づかいなく。ロウランドの奥方様は甘い言葉でわたくしを釣られましたが、その内容は、わたくし自身の都合でした。早い話が、今すぐトーラスを卒業するチャンスをくださったのです。この依頼を首尾よくやりとげれば、奥方様の御推薦《ご すいせん》を得て、そのまま王室|近衛《こ の え》連隊に配属できることになっています」  イグレインが近衛士官をめざしていることは、フィリエルも、トーラスにいたときから聞き知っていた。女性ながら軍人になることが、彼女の夢なのだ。イグレインはさわやかな口調で告げた。 「あなたはあなたの都合であって、少しもかまわないのですよ。わたくしも、自分の野心のためにこれを利用したいのですから。わたくしたちは、危険な旅のよい道づれになれると思いませんか。過去にも力を合わせた経験がありますし、お互いをよく知っています」  フィリエルは、なんとなく赤くなってうなずいた。たしかにイグレインとは、学内で知りあった少女の中で一番親密だったと言える。よくいっしょにお風呂へ行ったし——一度だけだが、キスしたこともある。 「それでは二人とも、合意がととのったようですね」  レイディ・マルゴットがしめくくるように言った。 「二人そろえてお話ししたいことがいくつかありますから、座ってもうしばらくおつきあいなさい。わたくしがこんな手配をしたことは、アデイルにはないしょですよ。あの子はきっと妬《や》くでしょうからね」  伯爵夫人はそう言ったのだが、フィリエルが部屋にもどってみると、アデイルはこのことをとうに聞き知っていた。女王候補として刻々と力を伸ばしているアデイルは、ハイラグリオンの王宮内に、どうやら養母とは異なる情報網を作りつつあるらしい。 「いいのよ、別に、わたくしは。フィリエルの無事が少しでも可能性を増すのなら、何にだって耐えてみせますわ」  アデイル・ロウランドは、少しもよくない顔つきでそう言った。フィリエルの部屋に座りこんだアデイルは、人形のようにきゃしゃで愛らしく、裾《すそ》を広げて|拗《す》ねているところは、同い年より若く見える。フィリエルは、むくれる従姉妹《いとこ》をなだめにかかった。 「イグレインは実際、有能な人物よ。奥方様の配慮は正しいわ。じつは、少しばかり自信をなくしていたところなの。あの人が来るからには、ユーシス様を守ることに関しても、ずっと確実性が増すというものよ」 「わたくしだってトーラスにいたのだから、イグレインがひとかどの人物だということくらい、よく知っています」  アデイルは口を尖《とが》らせた。 「お母様も、ずいぶんな切り札を取り出されたものね。彼女が行くのでは負けちゃうわ。わたくし、変装して、後からこっそり助けにいくつもりだったのに」 「アデイルったら」  フィリエルはあきれて彼女を見た。 「ばかなことを言わないで。女王候補の課題のあるあなたに、今からそんなことができるはずないでしょう。あなたには動けないと思うからこそ、わたくしが行く気にもなったのに」 「わかっています。今のはちょっとした空想よ」  |憂鬱《ゆううつ》な口ぶりでアデイルは認めた。 「たしかに当分のあいだ、トルバート情勢は目が離せませんもの。あの国に必要なのは、武力的な援助ではなく、国家間の|折衝《せっしょう》にたけた巧妙な交渉役よ。グラールから、和平交渉の使団を派遣する動きが出ているの。まだ出方がわからないけれど、動向によっては、わたくしも近いうちにトルバートへ行くことになるかもしれない……こちらのほうは、少しも空想ではなくてよ」 「アデイルがトルバートへ? 砂漠の向こうの国に、ブリギオンとの和睦《わ ぼく》を結ばせようというの?」  初耳のフィリエルは、驚いて声を大きくした。 「そんなことをするのは、竜のいる場所へ行くのと同じくらい危険じゃないの。あなたのすることではないわ。伯爵様がお許しにならないに決まっているわ」 「お父様は、たぶんおわかりになると思うわ。ある意味では、これも一種の竜退治ですもの」  考え深げにアデイルは続けた。 「もちろん、若いわたくしが代表使節になるわけではないのよ。お歴々がたくさんの候補をつらねていますもの。でもね、国際交流は、グラールの女性にとってのお家芸だし、裏技の行使においては、若さも強力な武器の一つなのよ」  トーラスで行われていた授業を思い返せば、フィリエルにも納得できそうだった。それでもフィリエルは、アデイルの言うことにショックをうけていた。 「でも——やっぱり、あなたが矢おもてに立たなくたって。女王候補ともあろう人に、そんな綱わたりをさせられるものですか」 「違うわ、フィリエル。それは盾となる騎士たちの考え方よ。彼らにそう感じてもらうことは重要だけど、女性がそこに居座っていたのでは、グラールはだめになるの。わたくしはむしろ女王候補として、ブリギオンの侵攻をはばみに行くのよ。フィリエルがためらいなく南へ行くと言うのを聞いたとき、わたくしも、引っこみ思案ではいけないことをさとったの——もしもわたくしに、本気で火の鳥を捕まえるつもりがあるのなら」  アデイルはまじめな表情でそう言い、それからいたずらっぽくつけ加えた。 「これはお母様にはないしょよ。じつをいうと今、ヴィンセントを呼び出している最中なの。もしもトルバートへ向かうことになったら、彼女ほど心強い味方もいないでしょう?」  フィリエルは思わずうなずいていた。アデイルとヴィンセント、この組み合わせはたしかに、世界の表舞台にふさわしい美少女コンビかもしれなかった。容姿といい、頭脳といい、その弁舌の巧みさといい。認めたのちに、フィリエルは肩を落とした。 「あなたって、ひどい人ね。自分のほうは黙ってそんなお|膳立《ぜんだ 》てをしているくせに、イグレインが行くことになったくらいで、|拗《す》ねてみせたりして」 「あら、おおいに|拗《す》ねますわよ。イグレインはとっても魅力的な女の子ですもの。わたくし、きっと、これから気が休まらないに違いないわ」 「気が休まらないって……」  フィリエルは困惑し、けんめいに考えたあげくに言うべきことを思いついた。 「イグレインはたしかに、とっても人気のある女の子だけど、それはトーラスの生徒たちが、彼女に赤毛の貴公子を見立てていたせいもあるのよ。だからって、ユーシス様が彼女にひかれるとは思えないわ。イグレインはしなをつくるような女の子ではないし、ユーシス様も浮ついたところのないかたよ。危険な任務の最中に、変な考えをおこしたりしないわよ」 「……フィリエルって、ときどき、とんちきな人になりますのね」  アデイルは小声でぼやいた。 「でも、それもフィリエルの個性だと思わなくてはいけませんわね。いいわ、そういうことにしておきます……」 「わたくし、変なことを言ったかしら」  いぶかるフィリエルにはかまわず、向きなおったアデイルは、あらたまった声で告げた。 「フィリエル、南へ行っても、わたくしのことを忘れないでいてね。わたくしたち二人のしていることは、離れていても、どこかでつながっていると思っていてね。あなたがお兄様を守ってくださることを、信じている……そして、ここで道を異《こと》にすることが、わたくしたちを断ち切るものではないことを、信じているの」  フィリエルはアデイルの唐突さにめんくらったものの、素直にうなずいた。するとアデイルは、スカートのかくしから青い石のペンダントを取り出し、フィリエルの手に握らせた。 「もっていってちょうだい」  エディリーンの首飾りだった。フィリエルの身元を明かす原因にもなった、フィリエルの母親のかたみ。グラールの初代女王より伝わると言われる、秘蔵の女王試金石。その深く青い宝石は、女王家の直系の血にのみ反応して真紅の色に変わる。  フィリエルはあわててたずねた。 「アデイル、どういうつもりなの。わたくしにはもう、女王陛下にこれをお見せする機会は来ないのよ。しかもこれから、国外へ行こうとしているのよ。ロウランド家であずかっていただけるとばかり思ったのに」  アデイルは肩をすくめた。 「ロウランド家だって、あなたがいなければ、エディリーン王女をかくまった事実を公表できる日は来ないのよ。あなたがもっていくべきよ。お母様のかたみなのだから」  フィリエルは輝くペンダントを見た。青い楕円《だ えん》の宝石をとりまく小粒のカット石は、傷のない高価なダイヤモンドであることが、今ではフィリエルにもわかっている。 「だめよ。王家の至宝でなくたって、ひと財産する首飾りよ。盗賊にねらわれそうな、こんな品をもって歩けるはずないでしょう」 「換金してしまっていいのよ。ダイヤは金貨より持ち運びに便利だわ。途中でお金に困ることがあるかもしれないじゃないの。もっとも、その青い石だけはもっていてほしいけれど」  フィリエルは首をふった。 「だめよ。わたくしにはとても責任がもてない。こんな身の上の証拠になるもの、何ももっていないほうが、いっそすっきりするのよ」  アデイルは両手を後ろに回し、返そうとするフィリエルを拒んだ。 「このくらいの意地悪をさせてちょうだい。そんなに首飾りをもっていくのをいやがると、あなたが二度と帰らないつもりだということ、わたくしに隠せなくなってしまいますわよ」  フィリエルは手を止め、どうすることもできなくなって従姉妹を見つめた。 「アデイル……知っていて、そう言うのね」 「あなたは、わたくしの空想を現実にして生きる人だわ。お互いを知った最初のころにも、わたくしはあなたにそう言ったはずね」  アデイルは悲しげに、大きな金茶の瞳でフィリエルを見つめた。  彼女のまなざしは、姉でありもう一人の女王候補であるレアンドラのように、射すくめる苛烈《か れつ》さをもたない。それでも同じくらい強制力があると、フィリエルはひそかに思った。その瞳をひたむきに向けられると、彼女の希望をかなえずにはいられなくなるのだ。  アデイルは願いをこめて言った。 「あなたは、ルーン殿たった一人のために、女王家の血などかえりみずに駆けていく人。わたくしが夢に見るにとどめておくことを、迷いもせずにやってのける人。そんなあなたのことが、いつまでも好きよ。わたくしには、女王をめざす道を歩むことしかできないけれど、こんな従姉妹のことを少しでも心にかけてくれるなら、その青い石を首にかけていて。そして、首飾りをもつあなた自身を、どうぞ大切にして。たとえどこで生きることになろうとも、それだけは、覚えていていただきたいの」      二  ユーシスはもちろん、女性たちが自分を守るために隠密《おんみつ》に動いているなどとは、天変地異に出くわそうとも察するはずがなかった。  カグウェルの竜退治は火急のことであり、女王陛下の認可が降りたからには、ハイラグリオンにぐずぐずするいわれはない。親しい人々へのあいさつもそこそこに、ユーシスの気持ちは目的地へとはやっていた。  その夜の大規模な宴会は、ユーシス・ロウランドの激励のために開かれたものだった。最初のうちこそ中央で、にこやかに応対したユーシスだったが、思いのほか長引いたため、目玉の展示物となっていることにうんざりしてきていた。波のように押し寄せる人々の|間隙《かんげき》に、ロットをつかまえて柱の陰に避難し、汲《く》めどもつきぬ上機嫌を保つことのできる男爵にむかってこぼした。 「竜騎士というのは、竜を退治して初めてそうなるものだろう。われわれはここで何の茶番をやっているわけなんだ。なぜ、今夜にも現地へ発つことができない? こんな興行はばかげているよ」 「わかっているくせに」  緑の瞳におかしそうな色を浮かべ、ロットは答えた。 「お父上のためにもう少しこらえろよ。ロウランド家は、君をできるだけ高く売る必要があるのだから。死んでしまえば、二度と親孝行はできないぞ」  ユーシスは軽く眉《まゆ》をひそめた。 「ああ、知っているとも。王宮のかけひきのなかでは、宣伝が事態の大部分を決定するってことくらいは。このフロアにいるだれ一人として、今、実際に竜に襲われて被害にあっている人々のことを考えてはいないよ」  ロットはめずらしげな視線をよこした。 「ほう、君はいつからそんなに正義の味方になったんだ」  ちょっと言葉につまってから、ユーシスは言いなおした。 「べつに正義漢ぶるわけじゃない。けれどもわたしは、このハイラグリオンを出て、単純だが現実に必要とされる役割をふられることに、正直いってほっとしているんだ。早くここから出ていって、そちらのほうで自分を試したいよ」 「長いつきあいだが、君がそんなふうに考えるやつだったとは、うかつにも気づかなかったな」  ロットは感慨深そうにゆっくり言った。 「ルアルゴー次期伯爵の君がそう語るのは、わたしなどに言わせてもらえば、一種の逃避に聞こえるが」 「何とでも言ってくれ、これがわたしの本心なんだから。どんなに上塗りしてみたところで、なじまないものはなじまない。最近、いよいよわかった気がする。わたしはこの宮廷に向いていないよ」  ユーシスは少し怒ったように顔をそむけた。男爵は友の横顔を見つめたが、肩をすくめずにいられなかった。気の毒なのか、その逆なのか、燃える赤毛の御曹司《おんぞうし 》ほど、本人の見解を外見が裏切っている例も見当たらなかった。 「まあ、人にはそれぞれ悩みってものがある」  もっともらしい口調でロットは言った。 「あと一日二日だ。それほどせかさなくても、われわれは嫌でも送り出されるさ。残された時間を有効に使うことを考えたらどうだ。ちなみにわたしの悩みは、どう配分してみても、別れを交わす御婦人の全員に応える体が足りないことだな」 「悔い改めろよ。手の広げすぎだ」  ユーシスのあいづちはすげなかったが、ロットは気にしなかった。 「死地におもむく身だぞ。どれほど別れを重ねてもしすぎということはないさ——もっとも、わたしは竜退治者ではないから、必ず帰ってくるつもりではあるが。君こそ、別れは重要ではないのか? いとしい婚約者殿はどうしている」 「ああ」  顔をなでて、ユーシスは気づいたように言った。 「話さなかったっけか。フィリエルは婚約をことわったよ。守られる身にはなりたくないそうだ」  ロットはびっくりして目を見はった。 「それで君はどうしたんだ。はいと言って引き下がったのか?」 「引き下がったわけではないが、そのままとり|紛《まぎ》れたきらいはある」 「彼女を怒らせたのか?」 「いや、怒ったのはアデイルなんだが……」  腕組みをしたロットは、ため息をついた。 「悔い改めろと言いたいのは、わたしのほうだな。ユーシス、君はどうしてそうなんだ。御婦人の言葉を、そのままうのみにしてくるやつがあるか」 「しかし、彼女ははっきりことわったんだぞ。それ以上わたしに何が言える?」 「なるほど。それゆえ君は、傷心のあまり竜退治を急いでいるというわけか」  男爵に言われて、ユーシスはつかの間考えこんだ。 「そうなのかな……そうも考えなかったが。フィリエルに、きらわれたという気はしていないんだ」  ロットは、少しばかり意地の悪い声になった。 「そうだろうとも。いかにも君は、努力なくして御婦人にきらわれることの皆無な男だよ。たぶん、それが君の一番の不幸なんだろうな」 「棘《とげ》があるぞ、ロット。わたしが努力を知らないような言い方は心外だな。君が言ったとおり、花だって持参していっている」  不本意そうなユーシスに、クリスバード男爵は頭をふった。 「君を|袖《そで》にするフィリエル嬢は、わたしが思っていたより、ずっと上手《うわて 》の女の子だよ。そういう希有《けう》な女性こそ、何としてでも捕まえておくべきだ。だが、君のお気楽さでは、とうてい無理だろうな」  憮然《ぶ ぜん》とした面もちのユーシスを見て、ロットはいつものおもしろがる表情にもどった。 「別れは、いつのときにも人生の重要な一シーンだ。恋愛においてはなおさらだ。君もそれを自覚して、自分の望むところをよく知ることだね」 (わたしの、どこがお気楽だというんだ……)  ロットが去ってしまうと、ユーシスは再び人々に取り巻かれたが、今や彼も望むところを自覚していた——この宴席から退散したいという望みのことだが。  友人がどう言おうと、ユーシスは自分を努力の人と考えていた。たゆみない努力で、ルアルゴー伯爵の嫡子という、生まれもった立場に立ち続けている。その努力が、他人の目には見えないだけなのだ。  しばらくの努力の末、ユーシスは|煌々《こうこう》と明かりのきらめくホールの脱出に成功した。ようやく一人になると、王宮の幅広い通廊は、ここも照明を絶やさないにもかかわらず、ひっそりとして感じられる。彼はふいに、初めて王宮へ来た十三歳の少年にもどったような気がした。  少年はやはりこんなふうに、夜会を途中で抜け出していたのだった。王宮の人々が優雅に泳ぎ回る特殊な水のなかで、自分だけ泳げないような気がしてならなかった。  年齢にしては背が高く、着飾ればそつのない若者に見えたため、彼の感じるギャップもまた大きなものだったのだ。ロウランド家の嫡子には、王宮で|粗忽《そ こつ》者《もの》になることを許されていない。なかにはロットのように、その水で初めから楽々と泳げる人間もいて、ユーシスには心底うらやましかった。  だが、彼は困難に正面から取り組み、謙虚に学び、進んでいろいろなものを身につけた。これを努力と呼ばずに何と呼ぶだろう。宮廷のだれ一人として、今のユーシスから、いたたまれずに逃げ出した少年を見出すことはできないに違いない。  しかし、いまだに、ときおり心のすきまにしのびこむものがある。あのときに感じた、だれ一人——自分の父母でさえ——彼の本当の気持ちを理解できないという、冷え冷えした孤立の思いだった。 (だからなんだ……)  ユーシスは、自分がどうしてフィリエルに婚約を申しこんだか、今わかったような気がした。フィリエルはたぶん、この感じを説明しなくても共感することのできる、王宮でただ一人の娘だった。 (……いや、説明したほうがいいのかもしれない)  ロットに挑発されたせいか、ユーシスはそう考えた。感傷的な気分はもたないたちで、今すぐ出発したいのはやまやまだったが、そんなユーシスでも、ロットの発言が耳にのこるだけの何かはあったのだ。めったにないことだが、だれかに自分の気持ちを語ってみたくなっていた。  ロウランド家の塔へ着き、取り次ぎをたのんでみたところ、ユーシスの当ては外れた。フィリエルはまだ部屋にもどっていないということだった。 「せっかく若君がお見えになったというのに……あの、わたくし、心当たりを探してまいります」  出てきた栗色の巻き毛の侍女は、ひどくすまなそうにそう言った。ユーシスは首をふった。 「それには及ばないよ。たいした用事ではない。フィリエルがいないなら、たぶん、アデイルももどっていないのだろうね」 「どうでしょう。アデイル様のお付きに、わたくしからたずねてみましょうか」  役に立ちたい一心のマリエは申し出たが、ユーシスは思いなおした。この前暴発して以来、アデイルは目に見えて彼を避けてまわっている。 「いや、いい。もどったほうがよさそうだ」  きびすを返し、塔の廊下をもどりかけたときだった。ユーシスは、吊りランプの下に立つ少女に気がついた。いつのまにか、アデイルが部屋の扉の前に立っていたのだった。  控えめな照明が、彼女の小麦色の髪を照らしている。今夜のアデイルはその髪に、青白いスミレの花をたくさん飾っていた。胸元に金の刺繍《ししゅう》のある濃紫《こむらさき》のガウンは色深く、髪にさした花は星のようで、たたずむアデイルの姿は、ユーシスにどことなく宵《よい》の明星を思わせた。  ユーシスは何気ないそぶりで、内心は警戒しながら妹に近づいた。ほっとすることに、口を開いたアデイルはかなり平静だった。 「フィリエルをたずねていらっしゃったの?」 「ああ。だが、彼女は忙しいようだ」 「そう、フィリエルはとっても忙しいのよ——お兄様が出発なさるまで、ずっと」  アデイルはユーシスを上目づかいに見上げた。 「フィリエルに、何を期待していらっしゃるの。彼女はお兄様の婚約者ではないし、お兄様は彼女を置いて、竜退治に出かけてしまうくせに」  見かけは静かでも、鎮火したわけではなさそうだと考えながら、ユーシスは言い返した。 「わたしが竜退治に行くことを、フィリエルは非難したりしなかったよ。むしろ、なぜ行こうと思うかをわかってくれた。怒っているのは君一人だろう」 「ええ、怒っていますわ。むだなことをなさるんですもの」  アデイルはぷいと顔をそむけた。ユーシスは言わずにいられなかった。 「君が何をむだと言うか、わたしにはわからないが、君のために竜退治をすると言ったら激怒することだけは、よくわかったよ。ロウランド家の威信のためだと言っても、やっぱり怒るんだろう。だったら、わたしのためだと思ってくれないか。わたしは自分が、自分の課したものにふさわしいかどうかを試しに行くんだ」  アデイルはしばらく返事をしなかったが、やっとのことでこちらを見た。 「わたくしを説き伏せようなどと、思わないでください。女王候補が、雄々しくあっぱれに闘えなどという型どおりのことを言えば、お兄様はそのまま真に受けるような人なんですもの。口が裂けても申しませんわ。あなたは、ご自分をどうなさりたいの? 何にふさわしくあろうとおっしゃるんです」  ユーシスは眉をひそめた。 「それはもちろん決まっている。グラールの女王とともに国を治める、一の騎士にふさわしい人物だよ」 「ロウランド家の模範解答でありすぎますわ。本当にそうなりたいと思っていらっしゃるの。心から、本当に?」  たたみかけるアデイルの表情は、怖いほど真剣だった。 「フィリエルがお好きでしょう。それなら、一の騎士のつとめなどなげうって、彼女の手をとって遠くへ行ってしまおうと、どうして考えられませんの。もしもそれを考えてもみないのなら、その時点で、お兄様がルーン殿に負けることは自明でしたのよ」 「ルーン?」  ユーシスはめんくらった顔で聞き返した。 「どうしてルーンの名前が、そこで出てくるんだい?」 「もう」  一つ足を踏みならすと、アデイルは腹立たしげに言った。 「これだからお兄様って——ここまで言えば、はっきり口にしなくても呑みこむのが当然でしょうに。フィリエルはルーンを愛しているんです。だから、お兄様とは婚約できなかったんです。フィリエルをどんなに困らせたか、おわかりになって?」 「そんなはずはないだろう」  ユーシスは心から驚いた。 「ルーンは暗殺の下手人で、行方をくらませてからこちら、どこにいるかもわからない人物だぞ。しかも、チェバイアットの思惑にのって行動したことが、今となってはほぼ確実だ。われわれは、すんでのところでぬれぎぬを着せられるところだった。あんな恩知らずの人間を、どうして思い続けることができるんだ」 「彼がフィリエルのために行ったからです。女性はそういう罪を、罪だとは考えないものです」  アデイルは静かに言った。 「身を捨てるほどの思いには、かなうものがありません。お兄様は、フィリエルに何をしてあげられて? 身をささげる相手をまちがえていますわよ」  ユーシスはしばらく考えこんだ。それから、吟味《ぎんみ 》するように注意深く言った。 「いや、まちがえているとは思わない。わたしとルーンを並べて比較することはできないよ。あまりに立場が違いすぎる。わたしには、彼のような選択の自由はないんだ」 「ですから、どうして、その点に疑問をおもちにならないの?」  アデイルは声を鋭くしたが、ユーシスは動じなかった。彼には、アデイルが何を望んでいるか本当はよくわからなかったが、ロットの言ったことは、おぼろげながら理解できたような気がした。『御婦人の言葉をうのみにしてはならない』という点だ。 「わたしを騎士でなくそうと、がんばってみてもむだだよ。そうするにはあまりにも、今日まで努力を重ねてきたんだ——君が女王に立ったときに、わたしが役に立つ男であるように。当然、竜退治もずっと前から視野に入っていた。赤ん坊の君が我が家の養女になった日を、わたしはよく覚えているよ。あの日から、誓いをくりかえしてきたのだから」  アデイルは金茶の|睫毛《まつげ 》をふせ、何度かまばたいた。泣きそうな顔に見えたが、彼女は決して泣かなかった。低い声で、ささやくように言った。 「わたくしに女王家の血が流れていることは、変えようのないことですけれど、お兄様の場合は、そういうものではないのよ」 「それは、騎士には代わりがいくらでもいるという意味かい?」  ユーシスはつとめて軽くたずねた。 「それとも、もしかすると君は、自分が女王候補に生まれついたことを嘆いているのかい」  アデイルはきっとなって顔をあげ、ユーシスを見すえた。 「そんなこと、言ってもしようがないでしょう。わたくしはものごころついたときから、このために育てられ、これしか生き方を知らないんですもの」 「わたしもだ」  あっさりとユーシスは言った。 「アデイル、わたしたちはそういうものだ。自分にできないことをとりあげて、わたしにだけ無理難題を言うものではないよ。君には、昔からそういうところがあるな」  アデイルの小麦色の頭を軽くなでてから、ユーシスは歩み去った。アデイルは意表をつかれたために、憤慨するのが一瞬遅れ、心ならずも彼の背中を見送った。 (これだから、わたくしたちは、小説の題材にもなりはしないのよ。悲劇もなし、ハッピーエンドもなし……)  扉に寄りかかり、長いため息をついたアデイルは、それから一人でつぶやいた。 「いいわ、お兄様がそのつもりなら。みてらっしゃい」      三  竜退治の騎士は、手勢として四十名ほどの兵士を引きつれ、大勢の人々に熱狂的に見送られながら、ハイラグリオンのザラクレスの大門を出立した。メイアンジュリーの街頭もまた、若い騎士の姿を一目見ようとする人たちで埋め尽くされている。通りにひしめき、花を投げ、歓声をあげる人々の間を、きらびやかにぬっていく様子は、まるで大祭のパレードのようだった。  彼らの巻き起こした興奮がおさまり、人々が散ってから、飾りけのない小型の馬車が、同じ道を目立たないように走っていった。こちらは密かに旅立った二人の少女、フィリエルとイグレインだった。  二人とも男ものの服に身を固め、イグレインは束ね髪のままだが、フィリエルはふちなし帽子にしっかりと髪をつめこんでいる。レイディ・マルゴットのとりなしで、彼女たちは、伯爵夫人の極秘の使者のふれこみで旅することになっていた。 「たぶん、王宮の侍女がこうした役割を担うことは、それほどめずらしくないのでしょう」  自信ありげにイグレインは言った。 「宿のおかみに、奥方様からあずかった印章を見せて、よけいな口をきかなければ事足ります。わたくしたちは少しも目立たずに、竜騎士についていけますよ」  ところが、最初の宿をとった時点で、早くもイグレインの確証はあやしくなった。かっぷくのよいおかみは、印章をもった二人を見ると、大きな胸に息を吸いこんで言ったのだ。 「まあ、この娘さんたちがそうなんだね! うちの宿に泊まってくれるなんて、なんて光栄なんだろう。お代はただでいいから、どうか話を聞かせておくれよ。どちらのお嬢さんが騎士様の恋人? それとも、本当は二人ともそうなのかい?」  あっけにとられたフィリエルとイグレインが顔を見あわせているうちに、声につられて人々がのぞきこみはじめた。イグレインがあわてておかみを制した。 「そんなに大声を出さないでください。わたくしたちは、極秘で旅を……」 「これは地声だよ。わかっているよ。極秘で王宮を抜け出して、恋しい人が死地へ向かうのを追っていくんだろう。若い娘さんが男のかっこうまでして、難儀だねえ。あたしたちみんな、あんたがたを応援しているからね」  フィリエルがおそるおそる口をはさんだ。 「あの、みんなって。わたくしたちの素性を、だれか知っている人がいるんですか?」 「何を言っているんだい。ここいら一帯、その評判でわきかえっているよ」  豪快に笑いとばしてから、おかみはフィリエルの顔をしげしげとのぞきこんだ。 「わかった、あんたがユーシス若様の婚約者さんだろう。王宮に告げ口はしないから、その帽子をとっていいよ。竜騎士の御一行が通りすぎてから、あたしたち、乙女はいつ来るんだろうと、今か今かと待っていたんだよ——ああ、ちょいと、あんた」  最後の呼びかけは、二人の後ろを通りかかった宿屋の亭主に対するものだった。 「のんきにしている場合じゃないよ。あかがね色の髪の乙女を見つけたよ。うちに宿をとってくれるんだよ!」 「なんだと。そりゃどえらいことだ!」  まだ呆然としている少女たちを、宿屋の夫婦は古びた気持ちのよい食堂に案内し、焼きたてのパンやら若鳥の香草焼きやらリンゴの菓子やら、店の自慢料理をふるまってくれた。笑顔の歓待がうれしくないわけではなかったが、どうにも閉口したのは、建物に入りきらないほどの人数が、彼女たちの食べるところを見学しに来たことだった。 「話がずいぶん違うではないですか」  ようやくのことで二階へ逃げのび、物見高い人々を閉め出すことができてから、イグレインは苦い顔で言った。 「フィリエル、世間で一般常識になるほど、あなたがロウランドの若君に恋い焦がれていたとは、女学校暮らしの悲しさで少しも知りませんでしたよ」 「違うのよ……どうしてこんなことになっているのかしら」  フィリエルは両手をほおに当て、困り果てた声を出した。 「わたくしにも、さっぱりわからないの。たしかに、少しは王宮でうわさが立ったけれど、こんな町中で言われるなんて信じられない」 「そう、王宮でうわさは立ったのですか」  イグレインの声が冷ややかなので、フィリエルはもじもじした。 「婚約者ではないのよ。ユーシス様には、きちんとおことわりしたの。勝手なことを言いたい人には言わせておけばいいと思っていたけれど……つけが回ったみたい」 「わたくしだったら、そういうのは嫌いです。浮いたうわさを立てられるような人間は、ろくなものではありません」  この手きびしさがイグレインだと思いながら、フィリエルは首をすくめた。その後で、イグレインはだいぶ気持ちをやわらげた。 「でも、単なるうわさの放置で、ここまで話が広がるはずはないでしょうね。だれかが故意に広めているとしか思えません。小耳にはさんだところでは、あなたは、ロマンチックな歌だかバラッドだかのヒロインになっているようですよ。我が身を捨てて、危険のなかを、いとしい恋人を追っていく」 「いったいだれが、口からでまかせを——」 「完全なまちがいでもありませんけれどね」  イグレインはフィリエルを見つめた。 「竜騎士を竜から守ろうというのだから、どう考えてもふつうではないでしょう。たしかに歌にしたくなるような、情熱的なふるまいですよ」 「よしてよ。わたくしは、ただアデイルに借りを返したいだけよ。本当に自分勝手なことをする前に、一つだけでも」  フィリエルが憤然と言うと、イグレインはふと考えこむように、口もとに手をやった。 「そういえば、こういうドラマチックな情報操作がお得意なのは、アデイルでしたね。エヴァンジェリンのあの人なら、このくらいのことはたやすいでしょう」 「こんな話を広めて、アデイルに何の益があるの?」 「わかりませんが——竜騎士の評判を、ますます高める役には立つのでは? ユーシス様の高名は、ロウランド家の高名でもありますし」  フィリエルは口を尖《とが》らせた。 「そうは言っても、弊害《へいがい》のほうがずっと大きいわ。こんなに派手に流れるうわさ、もしもユーシス様の耳に届きでもしたら、わたくしたちは、カグウェルに行き着く前に追い返されてしまうわよ。だいいち、恥ずかしくて、わたくしはだれにも顔をあわせられない」 「行く先々でこうだとしたら、たしかにまずいですね」  イグレインはうなずいた。 「奥方様がせっかく、おしのびの形を整えてくださったのに、あなたの人相まで出回っているとなると。どうやら、ロウランドの奥方様と姫君とは、あまり連携がとれていないようですね——ありがちなことですが」  フィリエルはため息をついた。 「二人とも、ユーシス様のためばかりを考えていることはたしかなのにね……どうする?」  少し考えてから、イグレインは言った。 「人の多い場所は、なるべく避けたほうが無難のようですね。でも、ギルビア公爵夫人あてに書いてくださった、奥方様の書簡まではむだにできないでしょう」  フィリエルも同感だった。竜騎士の一行は、カグウェルとの国境へ至る前に、国の南端のギルビア州を必ず通過する。そして、ギルビア公爵から、代々の騎士が竜退治の騎馬にするという、特殊な戦馬をゆずり受ける必要があった。その取り計らいもかねて、レイディ・マルゴットは公爵夫人に個人的な手紙をしたためたのだ。 「ギルビアの領主館まで迂回《う かい》するのはやめましょうね。公爵夫人には、一度お目にかかってみたかったのよ。オーガスタ王女殿下——アデイルの実の母君ですもの」 「あまり期待してはなりませんよ。同時にレアンドラ姫の実の母君でもあります」  イグレインはややそっけなく指摘した。 「わたくしも、ギルビア公爵家の訪問には興味がありますが。でも、お目にかかりたいのは、むしろ王女殿下よりも、あそこの城内に飼われている馬のほうです。公開されることはほとんどありませんが、伝統的な竜騎士の乗馬は、ただの馬ではないと言われています。ふつうの馬ではなく——ユニコーンだとか」  都を遠ざかれば、浮いたうわさも届かなくなることを望んだフィリエルたちだったが、試しに宿をとってみると、下火になるどころか、ますます盛んなことを何度も思い知らされた。二人が泊った場所からまたあらたに、尾ひれのついた風聞が広まるらしいのだ。  ギルビア州を目前にしたある宿で、イグレインは聞かされた話にかんかんになってしまった。その地域では、さらに根も葉もないことに、二人づれの乙女の一人はユーシスを追い、もう一人はロットを追いかけていることになっていたのだ。 「こんなのは、ぜったいに我慢できません」  イグレインは宿を飛び出すと、|憤懣《ふんまん》やるかたない様子で言った。 「このわたくしが、男を追いかけるですって。そんな鳥肌立つことを言われるくらいなら、露天で寝たほうがずっとましです」 「わたくしの気持ち、少しはわかったでしょう」  フィリエルは言ったが、イグレインがふるえるほど怒っているので、口調は控えめだった。イグレインは大の男でもなぐり倒しそうなので、わきで見ていたフィリエルはひやひやしたのだ。そんなことになろうものなら、またまたうわさにおまけがついてしまう。  荒々しく息を吐いてイグレインは言った。 「フィリエルはヒロインでもいいんです。あなたはかわいいから、そういういじらしさも似合います。でも、どこに目をつけているんだろう。わたくしを同じに扱うなんて」  フィリエルは彼女を見上げた。 「あなただって、かわいいのに」 「やめてください。かわいいと言われたことはないし、言われたいとも思っていませんから」  腹を立てると、彼女はひどく早足になる。長い足でどんどん歩くので、フィリエルはつい小走りになった。 「わたくしだって、いじらしくなんかないのよ。そうでないことを自分でよく知っているし、言われたくもないわ」 「——失礼しました」  イグレインはやや冷静にもどり、口にしたことをあやまった。 「決めつけるつもりではなかったんです。ただ……」  フィリエルを見て、イグレインは思案するように続けた。 「わたくしは、一生結婚するつもりはないんです。でも、あなたは違うでしょう」  少々びっくりして、フィリエルはたずねた。 「どうして結婚するつもりがないの」 「わたくし、男は嫌いです」 「でも——あなたは、男の人のたくさんいる軍隊に入りたいのではなかったの?」  イグレインはちらと笑顔になった。 「仕事仲間としての男なら別です。嫌いなのは、結婚対象として考えたときだけ。そうですね、わたくしは、自分のことを男と同じに考えたいのかもしれません」  フィリエルは考えこみ、それから顔をしかめて言った。 「わたくしは、男になりたいと思ったことがないわ。身内の経験から言うと、男の人って、けっこうどうしようもないものよ」  二人は宿にもどることをあきらめ、食糧を買いこんで馬車を先に進めた。いずれ野宿することもあるのだから、早めに予習しておくのもいいかもしれないという結論だった。  このあたりの地域は、話にきくカグウェルほど極端に暖かくはなかったが、一月末でもほとんど霜が降りない。おまけに晴天が続き、暮れると星空がたいへんきれいだった。街道をそれて木立のなかに入ったフィリエルたちは、暗くなりきらないうちに手ごろな窪地《くぼち 》を見つけ、野営の用意をした。  士官になりたいと言うだけあって、イグレインは良家の子女とも思えないほど、野宿のあれこれをよく心得ていた。だが、フィリエルとて、セラフィールドの高地に育った娘であり、火を焚《た》くにも水を汲むにも、もの慣れててきぱきしていた。  思わず笑ってイグレインが言った。 「優秀ではありませんか、フィリエル。奥方様の見解とはだいぶ異なりますね。奥方様はあなたが、一人では何もできないようなおっしゃいようでした」 「こういうことは別よ。わたくしにできないのは、育ちのいい人たちのすることだけ」  フィリエルはほほえんで、盛んに燃え上がる焚き火のそばから立ち上がった。 「そうだわ、イグレイン。また、わたくしに剣の稽古をつけてくれないかしら。宿は人目が多くて言い出せなかったけれど、もっと上達したかったと、前前から思っていたのよ」 「今からですか?」  イグレインは少しためらった。 「疲れすぎませんか? 旅は長いのですから、よけいに体力を消耗しないのが身のためですよ」 「平気よ。わたくし、もっと体を使いたいくらいなの」  護身用にもってきた細身の剣を引っぱり出してきて、フィリエルは言った。 「もっとくたくたになって、そして、ぐっすり眠りたいのよ」  てきとうに相手するつもりだったイグレインだが、フィリエルがひどく熱心で、しかも全然なっていないので、つい熱が入ってしまった。二人が再び焚き火のもとに腰をおろしたのは、だいぶしてからだった。 「ああ、やっぱり、続けてやっていないとだめね。明日からは、毎日寝る前に練習するわ」  フィリエルは息を切らせていたが、うれしそうに言った。水を入れたポットを火にかけてから、イグレインはさりげなくたずねた。 「フィリエル、このごろ眠れないのですか?」 「そうでもないのよ」  フィリエルは急いで言ったが、声は小さかった。 「ただ、何というか、夜中に目覚めるのがいやなの——夜は嫌いなの。思い出すことがたくさんあるから」  イグレインはしばらく黙っていたが、熱いお茶のカップをフィリエルにわたすときになって、静かに言った。 「あなたは率直なようでいて、見かけよりずっと、心を見せない女の子なんですね」 「そう——かしら」 「あなたがどうして、ロウランドの若君のために命を賭ける気になったのか、わたくしには計りかねているのですよ。あなたは、アデイルに借りを返すのだと言いましたが」  フィリエルは不思議そうに聞き返した。 「それではいけない?」 「いいえ。ただ、あなたの思いはどのあたりにあるのだろうと思って」  首をかしげ、フィリエルは考えこんだ。 「わたくしにも、はっきりとはわからないの。でも、ただ、そうしなければいけない気がするのよ」 「まあ、そのために、わたくしがつくことになったわけですが——」  イグレインは軽くため息をついた。 「言わせてもらえば、かの竜騎士の若殿様は、ちょっと頭にくるほどの果報者ですね。大勢の人々が彼のためにやっきになっている。みんながここまでする価値のある人物なのかどうか、見定めてやりたくなりますよ」  森に入りこんだために、フィリエルたちはギルビアの領主館に裏手から近づくことになった。しかし、彼女たちはあまり気にとめなかった。ユーシスの一行に出くわす可能性のある正門から入るよりも、かえって危なげないと思ったのだ。  二人の馬車は、頭上を覆う木立が続くなかを進んだ。冬の暖かなこの地方では、広葉の常緑樹が生い茂り、真冬であっても葉を落とした木々は少ない。そうした樹木の、北国とは比べものにならない生気の豊かさを、フィリエルは肌に感じとる思いがした。生命にとって、暖気はかけがえのないものなのだ。 「竜が出没するような土地に、どうしてたくさんの人が暮らしているのだろうと、いつも思っていたわ。でも、今なら、どうしてメイアンジュリーまでもが南寄りにあるのかがわかるわ。女神様が植物にやさしい土地は、人々にとってもやさしいのでしょうね、きっと」  隣でたづなを操るイグレインはうなずいた。 「あくせくしなくても作物は伸びるし、家畜を育てなくても動物は豊富だし、屋根をもたなくても真冬に凍えることもない。竜さえ現れなければ、南の地方は、本当に生きやすいと言えるでしょうね」 「でも、一番生きやすい土地は全部竜のものなのね……どうして女神様は、この世をそんなふうにお作りになったのかしら」 「わかりませんね。われわれが、傲慢《ごうまん》にならないためでしょうか」  イグレインは言ったが、真剣にそう考えている様子ではなかった。 「メイアンジュリーから竜を|駆逐《く ちく》したように、もっと南まで竜を一掃することができたらいいのですが。でも、面と向かって竜に出くわせば、われわれがいかに非力な生き物かを思い知ると言いますよ」 「だれがそう言うの?」 「うちの父です」  その話をしてくれとフィリエルがせがむと、イグレインは語りだした。 「わたくしの父は、若いころに南の国々を回ったことがあるんです。わたくしなどには、もう耳にたこができた自慢話ではありますが。父は、一つの村が竜に滅ぼされるのを目の当たりにしたことがあるそうです」  父親の声に耳をかたむけるようにゆっくりと、イグレインは続けた。 「最初の段階は、畑の作物にひかれて、草食の竜がやってくることだそうです。体の大きさのわりにおとなしい竜で、パニックにならないかぎり、人間を襲うことはしません。ですが、作物は根こそぎだめになるので、やはりありがたくない来客です。彼らを追い払うことができれば、何とかなるのですが、手が打てずにいると、いずれ草食の竜をくらう肉食の竜が侵入してきます。肉食の竜は真に恐ろしい竜です。何ものをも噛み砕くあごをもち、えものをすばやく狩る後足をもっています」  フィリエルは、コーネル博士の隠居所で見た竜の骨格を思い浮かべた。大きなあごとナイフの歯、後足で立ち上がる、二階屋ほどもある長大な背丈を。 「その大きさに比べて、足の速さは驚くべきものだそうです。ふつうに人間の|対峙《たいじ 》できる生き物ではありません。見ただけで動けなくなる人が多く、そのため多くの人々が犠牲になったということです。父は走ることができたから、今があるわけですが——父にできたことも、逃げることで精いっぱいだったそうです」  イグレインは小さく苦笑した。 「竜の体は、うろこのある固い皮に覆われていて、少々の矢や刃物では傷つかないそうです。竜を倒すことが可能な唯一の方法は、眉間《み けん》への攻撃だとか。全身のなかでそこだけ骨がややもろいためで、だからこそ竜退治の騎士たちは、伝統的に長槍《ながやり》での一撃必殺をめざすのです。とはいえ、相手の牙《きば》や巨大さを思えば、これは容易ならないことでしょう。ですから竜騎士には、本人の超人的な勇敢さと技量と、足の速い最優秀の乗馬が必要とされるんですよ」  イグレインの話を聞いたその夜、フィリエルは竜の夢にうなされた。それまで、漠然とした脅威だった竜が、大地に根づき、たしかに息づいていることを、ようやく実感しはじめたせいかもしれなかった。 「このまままっすぐ進めば、領主館の北門に行き当たるはずです。方角はほぼ合っていますから」  二人は、太い木の根がさえぎるでこぼこな小道を、苦労しつつ馬車を進めていた。森の奥深くへ分け入るばかりにしか思えなかったが、わずかにたどれる道があり、領主館へと続いているようだ。買いこんだ食糧は底をついており、もう一晩の野宿はできれば避けたかった。  心細い顔つきのフィリエルを、イグレインがなぐさめた。 「いくら奥まっても、国内には竜など出てきませんから、大丈夫ですよ。どうしても安心できないなら、万一のために、わたくしが弓の用意をしていましょう」 「イグレインは弓もひけるのね」  フィリエルは尊敬の目で見た。イグレインはフィリエルに馬車のたづなをまかせ、慣れた様子で弓に弦《つる》をはった。 「女学校にいるあいだ、狩りには行けませんでしたが、ちゃんと練習していましたから、なまっていないはずです」  今ではフィリエルも、狩りが貴族の特権というべきスポーツだということを知っている。ハイラグリオンの東にある赤鹿の森は、王族の狩猟地として有名だった。 「あなたも鹿を狩るの?」 「そんな獲物を狩ることは、よほどの栄誉に浴さないかぎりできませんよ。鹿がいるのは、赤鹿の森だけですのに」 「いないの?」  フィリエルはびっくりした。 「わたくし、森にはふつうに鹿が住んでいるのだと思っていたわ」 「ふつうはいませんね。でも、あんな優美な生き物が、あちこちの森にいたらすてきでしょうけど」  楽しげな口調でイグレインは言った。 「わたくしの父は狩りが好きで、我が家はいつも猟犬だらけでした。わたくしも、よく狩りのお供をしましたよ。仕とめるのは、ウサギとかキジとか——トカゲでしたね」 「トカゲ?」 「いるんですよ、このくらいのが」  フィリエルはたじろいだが、イグレインは手を広げて、ウサギと同じくらいの大きさを示してみせた。 「見た目はぶさいくですが、意外に淡白な味で。祖父は自分の好物にしていました。このへんにもいそうな感じですね。見つけたら、獲ってあげましょうね」  見つけてほしくないと、フィリエルは切に願った。トカゲを食う乙女の図というのは、あまりバラッド向きではないのではないか。 (イグレインって、南部の育ちだったのね……)  認識の違いを感じて、フィリエルは沈黙した。今からこうでは、カグウェルで何に驚くか知れたものではない。いろいろと覚悟しておく必要がありそうだった。 「少し馬車を止めましょう。そのあたりを歩いてみます」  イグレインが弓矢を手に馬車を降りたので、フィリエルはあわてて引き止めた。 「そうまでしないで、イグレイン。トカゲを食べなくても、わたくしはかまわないから」  ふいにイグレインはふきだした。 「水を見つけにいくんです。馬を休ませて、わたくしたちもお茶を飲もうかと。フィリエル、ずっと気にしていたんですか?」  その口調で、からかわれたことがわかった。フィリエルの顔つきを楽しんでいたのだ。 「ひどい。イグレインったら」 「全部が全部ほらではありませんよ。カグウェルのような南には、本当に、食用になる大トカゲが森に住んでいるそうです」  おかしそうに笑いながら、イグレインは水筒を下げて出かけていった。フィリエルはぷんぷんしながら、馬の引き綱を解いてやった。  一人になると、急に鳥のさえずる声が大きく聞こえる。森というのは、決して無音にはならない場所だった。わずかな風に葉がざわめき、いつでもかすかに何かが歌っている。それでいて、一人になるとしんと淋しかった。太い木の根に腰かけて、フィリエルはため息をついた。 (イグレインはよくしてくれるのに……)  日中ほとんどの時間は忘れていられるものだが、こうして一人になったときに、あるいは夜に、フィリエルの胸にしみとおる寂しさがある。それは、自分でもどうしようもないものだった。  ぼんやりしていたフィリエルのすぐ耳もとで、大きなさえずりが聞こえた。フィリエルがはっとふりかえったのは、鳥が舞い降りたかと思ったからだ。そして、黒く丸い目と目を見交わした。斜め後ろに、灰色の子羊のようなものが立っていた。 「きゃっ」  あまりに近くにいたことに驚き、フィリエルは跳ね飛んで向きなおった。そのけものは、フィリエルをしげしげと見ると、黒っぽい鼻づらを上げ、鳥のさえずりそっくりに喉《のど》の奥で鳴いた。フィリエルは、先ほどから聞いていたのはこの声だったことに気がついた。 「なに、これ……」  羊なら、ホーリーさんのもとでよく見慣れているフィリエルだったが、どんな子羊もこうは鳴かなかった。フィリエルの耳に「ピイピイ」としか聞こえないのだ。  落ち着いてよく見ると、それほど子羊にも似ていなかった。大きさは生後二ヶ月の子羊くらいで、足がひょろ長く、ふわふわした毛で覆われているが、耳は子馬のように立ち、頭がほっそりしている。  フィリエルは子馬に仮定しようとしたが、そうするとまた変な点が多かった。たてがみがないし、しっぽが違う。しっぽの毛は、先の方に束になってくっついていた。そしてそのしっぽを、はたきのように振っているのだ。  フィリエルはさじを投げ、自分の知らない南部の生き物だと結論した。好奇心で人間を見に来たのだろうか。頭を上げ下げしてピイピイ鳴くところが、まるであいさつしているようだった。 「フィリエル、動かないで!」  ふいに緊迫した声がとんだ。イグレインがもどってきたのだ。彼女が弓を構えるのを見て、フィリエルはあわてて叫んだ。 「殺さないで。これはきっと子どもなのよ」 「油断しないで。こういうとき、危ないのはその親なんです。子どものためなら、どんな生き物でもひどく凶暴になるものです」  フィリエルは息をのみ、頭をめぐらせて周囲の茂みを見た。イグレインもあたりに気を配り、矢を手《た》ばさんでいる。少しの間緊張が続いたが、しばらくするとイグレインも構えを解いた。 「どうやら、親がそばにはいないようですね。迷子なのかしら」  フィリエルは胸をなでおろした。 「イグレイン、聞いていい? これはなんて生き物なの」 「知りません」  イグレインはあっさり答えた。 「わたくしの育ったあたりでは、こういうものは見かけませんでした。これ、ヤギの一種か何かですか?」 「羊でないことはたしかだわ」 「犬でもありませんね」 「馬でもないと思うの」 「鹿とも違いますね」  二人が言いあっていると、灰色毛のものは、おしゃべりに加わるつもりのようにさえずった。喉の奥をふるわせ、歌っているようだ。少女たちはまじまじとながめた。 「……鳥みたいですね」 「でしょう。だからわたくしも悩んでいたのよ」 「人にずいぶん慣れているようですね。野生に暮らすものなら、こうはいきません」  イグレインが言ったのは、灰色の子がフィリエルの手の匂いをしきりに嗅ぎ、頭をこすりつけて甘えるようになったからだ。 「まるでうちの子犬みたい。この子の親は飼われていますよ。賭けてもいいです」  何であれ、なつかれるとほだされるものだ。得体が知れないことはさておいて、フィリエルは気持ちがなごんできた。 「お腹がすいているのではないかしら。だからこんなにまとわりつくのよ」 「いったい何を食べるのだと思います?」  イグレインはたずね、これにはフィリエルも答えられなかった。 「もしも飼われているなら、知っている人がいるはずね」  フィリエルがそう言ったときだった。前方の木立から、かすかに規則的な音が響いてきた。フィリエルが口をつぐむと、イグレインがいったん弓を取り上げたが、また下ろした。そのような音を、イグレインはよく承知していた——高級な馬具についた小鈴が、並足の歩みにつれて鳴らす音だ。  ふいに、灰色毛の子どもが今までと違う高い声で鳴いた。呼びかける声だ。その声の大きさに二人が目をまるくしているうちに、鈴の音の主が目の前に現れた。  子どもが駆け寄ったところをみると、どうやら現れたのが親だった。だが、イグレインの判断は正しかった。そのものは馬具をつけ、鞍《くら》に人を乗せていたからだ。険しい目でこちらを見すえる、もう若くはない婦人だった。 「そこにいるのは何者です。ここはすでに公爵家の領内です。無許可の立ち入りは許されていません」  乗馬服の婦人は、そのまなざしと同じく厳しい声で申しわたした。しかし、少女たちにはすぐに弁解ができなかった。  二人は返答を忘れ、くいいるように婦人の乗馬を見つめていたのだ。つややかな光沢をもつその馬は、明るい黄緑色だった——信じられないことに、緑色だったのだ。そして、たてがみは合歓《ねむ》の花のように薄赤く、ふわふわと柔らかそうだった。  婦人がたづなをゆるめてやると、緑色の騎馬は頭を下げ、ピイピイ鳴く灰色毛の子どもを鼻先でつついた。その額のあたりには、一本の角がはえていた。      四 「あなたがたのしたことは、本来なら、問答無用で罰されてしかたのなかったことですよ。公爵家の森に無断で立ち入る者はそうなるのです。ですが、まあ、事情はわかりました。ここはルアルゴー伯爵夫人の印章に免じて、目をつぶりましょう」  レイディ・マルゴットの書簡に目を通しながら、オーガスタ王女はそう言った。少女たちがユニコーンを見た衝撃から立ちなおり、言い訳するうちに気づいたことだが、一人で森をやってきたこの婦人こそ、ギルビア公爵夫人だったのだ。  コンスタンス女王陛下の第一王女でありながら、王位を継ぐことなく、都からはるばると下った国境のギルビア公爵家へ嫁いだ人。書簡を読む婦人の顔を盗み見ながら、フィリエルは考えた。 (どんなかたなのか、想像もつかなかったけれど……それでもやっぱり意外だったわ)  王女殿下には化粧気がまったくなかった。フィリエルの最初の印象は、「小じわを気にしない人」だった。王宮に身をおいただけに、貴婦人がどれほどお肌の老化を騒ぎたてるか、いやになるほど見てきたのだ。  それなのに、この人は女王家直系でありながら、お肌を放置して問題を感じないらしかった。よく日に焼け、鼻のわきのしわも目尻のしわも深い。レイディ・マルゴットの同世代には見えないと、ひそかに思う。  ゆえに、アデイルに似たおもかげはどこにも見当たらなかった。背丈が高く乗馬の巧みなあたりは、姉のレアンドラが受け継いでいるようだが、レアンドラの顔立ちもあまり似ていない。  オーガスタ王女のあごの線は、娘二人のどちらよりも角ばっており、鋭利な瞳は濃い緑だった。髪は淡くつやのない色で、素っ気ないまげにまとめてある。この人にも、王宮の名花だった時期があるのだろうかと思うと、不思議な気のするくらいだった。  つまり、フィリエルの知っている婦人のなかで、王女殿下に一番印象が似ている人はと言えば、ホーリーのおかみさんなのだった。さすがに同定するのはためらわれ、うち消したのだけれども。  その身についた姿勢のよさと冷たい威厳のほか、オーガスタ王女を貴婦人らしくさせるものはなかった。身につけた乗馬服も、ルアルゴーの館ならただの馬丁が着ていたような実用品だ。いくら普段着だといっても、公爵夫人の装いには不似合いに思える。  ただ、彼女は一つだけ装飾品をつけており、それは腕輪だった。かなり幅広な黄金の腕輪を右の手首にはめているのだ。その金細工には、青い楕円形の宝石がはめこまれていた。  宝石に気づいたとき、フィリエルは自分が服の下につけている首飾りを鋭く意識し、落ち着かない気分になった。 (このかたは、おかあさんの姉君なのだ。いっときは、おかあさんと女王候補として競ったのだ……)  もっとも彼女のほうは、姪《めい》に対面しているなどとはこれっぽっちも気づかない。レイディ・マルゴットの手紙に書いてあるはずもなかった。オーガスタ王女が以前、妹のエディリーンをどう思い、現在の女王争いをどう思っているかは、ルアルゴー伯爵夫人の情報網をもってしても不明だったのだから。 (女王家に生まれると、しくみとして、血縁の親しみをもたないようにできているのかしら……)  フィリエルは、自分にとっても伯母という親しみはとうていわかないのを知り、空虚な気持ちでそう考えた。だからこそ、女王家の人々は、玉座をめぐって互いに殺しあうことも辞さないのだが。  フィリエルの気持ちを知らず、手紙を読み終わったオーガスタ王女は、便せんをたたみながらてきぱきと言った。 「竜騎士の一行は、もうわが館に到着しています。しばらくは大騒ぎですね。公爵は、正規の乗り手が現れたこの機をとらえて、業績をしつこくアピールするでしょうし、ユニコーンを初めて目にする人々は、一時パニックに陥るものです。あなたがたも、しばらく館で骨休めをなさい。ロウランドの若君がユニコーンを御すことに慣れるまで、どんなに優秀でも数日は必要でしょうからね」 「ありがとうございます。王女殿下の心広いお言葉に甘えさせていただきます。あの……質問させていただいてもよろしいでしょうか」  答えたのはイグレインだったが、礼儀正しい応対の最後で、彼女はいくぶん口ごもった。 「何でしょう」 「あのう……ユニコーンはみんな緑色をしているのでしょうか」  オーガスタ王女はちらとほほえんだ。 「いいえ、毛並みによっていろいろです。その色の親から同じ色の子ができるともかぎりませんし」 「それでは、ええと……ユニコーンの子はみんな灰色なのですか?」 「ええ。産毛の色は決まって灰色です。これが抜けかわってどんな体色になるかが、育てる楽しみの一つなのです」  王女がほほえむと、目尻に刻んだしわが浮きたったが、気持ちのよい笑顔だった。幼いユニコーンを見やるまなざしには、少女たちに向けた厳しさが少しも見られなかった。 「あなたがたは、そうとうまれなものを目にしたのですよ。子どもはなかなか生まれないのです。ユニコーンの繁殖力はたいへん低いものですから。このちびさんが囲いを飛び出してしまって、ずいぶん心配しました。難なく見つかってよかった」 「生まれたばかりなのですか?」 「ひと月たったところです」  少女たちは、あらたな目で灰色の子をながめた。親の足もとでさかんに鳴き、上を向いて口を開けている。親ユニコーンのほっそり長い顔を見てしまうと、その子の顔も子馬と見ることができたが、フィリエルたちが内心ぎょっとしたくらいに、口が大きく開いた。頭が二つに割れたかと思うくらいだ。 「おやおや、朝ごはんはたっぷり食べたのに。甘えん坊さんね」  オーガスタ王女はユニコーンに足を向け、鞍に下げた袋から餌らしきものをつかみ出すと、子どもの口のなかに無造作に押しこんでやった。 「お乳をあげなくていいんですか?」  好奇心に負けてフィリエルはたずねた。生まれてひと月の子羊だったら、まだミルクしか飲めないはずだ。 「ユニコーンは乳を出しません」  王女は静かに言った。 「ごく小さなうちは、親が餌を噛みもどして与えますが、あっという間に自分で餌をとるようになります。ユニコーンは馬によく似た姿をしていますし、うまく馴らせば騎馬にもなりますが、馬と同じに扱うのは失敗のもとでしょう。生態も気質も、これは完全に別種の生き物です。ユニコーンはむしろ、竜の一種なのですよ」  今、騎士たち一行は、公爵の心尽くしで宴を開いている最中というので、おしのびの少女たちも、通りすがりにユニコーンの厩舎《きゅうしゃ》を見学することができた。森に囲まれた飼育場は、馬のそれとはまったく異なっていた。  まず、ユニコーンは、馬のように一つの牧や厩舎で飼うことができなかった。雄一頭に雌の二、三頭がひとグループの限度で、角がはえる前の幼獣でもなければ、別のユニコーンがなわばりを侵すと突き殺されてしまうそうだ。つまりは、ひどくどう猛な生き物なのだった。  ギルビア公爵邸の北面の敷地には、五カ所に分かれた飼育場があり、それぞれを壁で隔てた様子は、アンバー岬の庭園がそうだったのに似ていた。夏の庭園にとりどりに咲いた花のかわりに、ここにはユニコーンがいるわけだ。そして彼らは、たしかに花にかわるほど華麗だった。  オーガスタ王女の言ったとおり、ユニコーンの体色はいろいろだった。主には青、緑、紫などで、濃淡はさまざまであり、くすんだ色であっても光沢を失わない。馬と違って、毛並みがまだらになることはないようだった。そしてどのユニコーンも、たてがみは体色と異なる鮮やかな色合いで、赤もピンクも黄色もあり、夏の花か鳥の冠毛のように目立っていた。  額の角は灰色に近い色で、真珠光沢がある。雄のユニコーンの角は雌のよりも長く、慣れない少女たちでも、囲いのなかの雄をすぐに見分けることができた。よく注意して見ると、発達した角には螺旋《ら せん》状の刻み目がある。雄のユニコーンは体もまた大きく、プライドも闘争心も強いようだった。  少女たちの前で、その大きな雄を恐れげなくなでながら、王女が言った。 「ロウランドの若君が、雄を乗りこなすか雌に甘んじるかが、竜騎士として一つの分かれ目ですね。雌に乗れば、その一頭しか手に入りませんが、雄を屈服させれば、同じファミリーの雌は協力してついていきます」  ユーシスはさぞ度肝を抜かれているだろうと思いながら、フィリエルはたずねた。 「竜退治に行くには、どうしてもユニコーンに乗らなくてはいけないのですか?」  オーガスタ王女は、鼻先で笑ったようだった。 「どうしてもなどと言う人はおりませんよ。馬に乗ってカグウェルまで行ってみればよいのです。竜の影が見えないうちに、竜の匂いがしただけで、馬は回れ右して逃げ出すでしょう。竜に向かって突進のできるけものなどおりません——怒りに目のくらんだユニコーンでもなければ」  ギルビアの領主館は、赤レンガを積んだ重厚な建物だった。飛燕《ひ えん》城のように伸びやかに小塔が立ち並ぶことなく、亀のように平たく頑丈に造られている。年ふりた常緑樹の巨木が館の周囲に立ち、見晴らしがやや暗く、いかめしい気配にみちみちていた。  滞在する騎士たちにはちあわせしないよう、一番離れの部屋に入れてもらってから、フィリエルとイグレインはぞんぶんに驚きあった。 「たまげましたね。ギルビアのダントン家は、傍系王族のなかでも社交的でないと言われますが、領地内にこんなものを飼いながら、それを秘めておくなんて。ここ十七年、竜退治の当人を含めて、だれにも詳しく知らされなかったんですからね」 「そうよ。王宮の夜会でも一度も話題にならなかったわ。あれほど口さがない人たちなら、黙っているはずがないのに」  フィリエルはくやしがるように、イグレインにたずねた。 「ねえ、あなたはどこで、竜騎士の乗馬はユニコーンだと知っていたの?」  イグレインは、少し思いめぐらせてから答えた。 「なんとなくそういうものにはなっていますよ。ほら、タペストリーに描かれる図柄とかでは、いつでも馬に角があるでしょう。聖劇でも、騎士の馬を出す場合には角をつけますし。でも、わたくしは、英雄にふさわしい名馬の象徴だとばかり思っていたんです」  そう言われてみると、フィリエルも同じに考えていた。あれが馬でないものだとは思わなかった。両腕をかかえてフィリエルはつぶやいた。 「わたくしたちは——特に北部で育ったわたくしなどは、南の生き物について、本当に何も知らないわ。王女殿下は、ユニコーンが竜の一種だとおっしゃったけれど、少しもぴんとこないもの。どうしてこんなに無関心でいられたのかしら。お隣の国には出没する生き物だというのに」 「博物学の授業は、妙に眠けをさそいますからね。わたくしもまったく苦手なんです」  イグレインは明るくほほえみ、フィリエルのように考えこみはしなかった。 「当面は、ロウランドの若君のお手並みを拝見しましょう。ユニコーンの乗り心地をわたくしも試してみたいと言いたいところですが、あれに乗るのは、けっこう危険な芸当ですね。それに、はっきり言って、少々気色が悪いと思いませんか。あの生き物は——あまりさわりたくないような」  その気持ちはフィリエルにもわかった。ユニコーンは、遠目に見るなら華麗だが、近くに寄ると、なんともいえない異質さを感じるのだ。肌がざわざわするその感じが、あるいは竜の種からくるものなのかもしれなかった。 「ユーシス様、大丈夫かしら」  口に出してはそう言ったが、フィリエルは別のことを考えていた。思うまいとしているのに思ってしまうことだった。 (ここにルーンがいたら。ルーンだったら、これをどのように解釈するだろう……)  立派な寝台をあてがわれ、今夜こそぐっすり眠れると思ったのに、夜中に目の開いてしまったフィリエルは、自分にげんなりした。  見た夢も最低だった。「教えてあげる」とルーンが言い、手をひかれてエディリーンのお墓へ行ってみると、墓の上に竜が営巣していて、卵を暖めているという夢だ。まるでなっていない。 (だめよね、自分で考えなくちゃ……)  小難しいことはルーンが考えるだろうという、このたよりぐせを、なんとか取り除かなくてはならなかった。ここにはフィリエルしかいないのだし、もしかすると、これからもずっとそうなのだから。 (しっかり目をすえてみよう。フィリエル・ディーは、このなんだか変わったギルビアの館で、何が一番気になるのだろう……)  夜の闇のなかで目を見開き、フィリエルは考えた。心の声が、それは伯母にあたる人のことだと答えた。第一王女である人が、エディリーンのように世を去ったわけでもないのに、宮廷と縁を切ったようにして埋もれ、この場所でひっそりユニコーンを育てていることだ。 (どうしてなんだろう……)  フィリエルは、灰色毛の子どもに向けた彼女のまなざしや、雄のユニコーンをなでる手首に輝いた、青い宝石のきらめきを思いおこした。彼女は決して不幸そうではなかった。そして、王女であることを、忘れようとしているわけでもなさそうだった。  それからフィリエルは、たいそう人なつこかったユニコーンの子どもに思いをはせた。館へもどって自分の囲いに入るまで、ピイピイ鳴く幼獣は、親ユニコーンよりもフィリエルの足もとにまとわりついていたのだ。その間、オーガスタ王女が、ユニコーンがいかに人間になつかないかを話し続けているというのにである。 「フィリエル、あなたは何か、生き物をひきつける不思議な力があるんじゃありませんか」  イグレインが苦笑して言ったくらいだ。出会いの最初から、ユニコーンの子はフィリエルにばかり興味を示した。 (あの子……)  明日からは、騎士の一行が庭にたむろして、とても囲いには近づけそうにない。だが、フィリエルは、ふともう一度ユニコーンの子に会いたくなった。なぜというわけでもないが、会って、再びなつくかどうか見てみたかった。  明日からできないのなら、今しかない。フィリエルは、ほとんど迷わずに寝台からすべり出た。つまりは、このまま横になっていても、眠れそうになかったのである。  内も外も、ギルビアの館は暗かった。だが、それを言うなら飛燕城も同じで、夜通しの照明をつけるぜいたくは、ハイラグリオンだけに可能なものだ。  しかし、ここのところ野宿もしたせいで、フィリエルは暗がりを歩く勘をとりもどしていた。ばかなことをしている気もしたが、見つかったときはそのときだと考え、記憶にある子どもの囲いへと向かった。  灯火がほとんどないにもかかわらず、半屋根のあるユニコーンの囲いには、まるで待たれているように明々とランプが下がっていた。フィリエルは難なく目的の木戸を探し当てたが、戸を押す前に予感がしなくもなく、それはそのとおりだった。ユニコーンの寝床を囲う柵のかたわらに、オーガスタ王女が立っていた。  フィリエルは、戸口に立ってためらった。彼女は館で借りた部屋着をはおっていたが、オーガスタ王女は先に見た乗馬服のままだ。気まずいながら、おずおずとたずねてみた。 「あの……お休みにならないのですか」 「これからは昼間によその人がうろうろして、思うようにユニコーンたちの世話ができませんから」  ほつれ毛をかきあげる王女の様子からは、疲れきっていることがうかがえた。だが、フィリエルに向けた口調はやはり厳しかった。 「そういうあなたは、このような夜中に、いったい何をうろついているのです」  どう言ったものかとフィリエルが考えているうちに、例のピイピイ鳴く声がした。ユニコーンの子が起き出したらしい。  四頭の成獣は屋根の下に寄り集まり、寝わらに足を折ってこちらに顔を向けている。眠ってはおらず、耳だけが静かに動いていた。灰色の子どもは、親たちの体のあいだからひょいと飛び出すと、陽気に柵の際まで駆けてきた。  フィリエルは思わずほほえんでしまった。子どもが、見まちがえようもなくフィリエルをめざして走ってきたからだ。なぜということは二の次にして、胸の内が熱くなった。かがみこみ、柵越しにまだ角のない小さな頭をなでてやる。ふわふわの産毛は手応えがなく、その下の頭は固くて暖かだった。  ふいに、オーガスタ王女が深いため息をついた。 「まさかね……こんなことになるなんて」 「この子は、どうしてわたくしのことが好きなんでしょう」  フィリエルは言ったが、答えてもらおうと思ってのことではなかった。けれども王女は右手をあげ、フィリエルに金の腕輪をかざした。 「これをごらんなさい。この腕輪についているものが何だか、あなたはもうご存じね」 「はい」  フィリエルは小さくうなずいた。 「同じものを身につけているのでしょう。あなたという人は」 「……はい」  はっと驚いて、フィリエルは聞き返した。 「この子がわたくしになつくのは、そのせいだとおっしゃるのですか?」  王女はすぐには答えず、寝わらのユニコーンのほうをしばらく見やった。それから低く言った。 「女王家が受け継ぐ女王試金石は、全部で三つ存在します」 「ユニコーンに、それを見分ける力があると?」  勢いこんでフィリエルはたずねたが、王女はまたもすぐには答えなかった。 「名をフィリエルといいましたね。フィリエル・ディー?」 「はい、王女殿下」 「最初にここにたどり着く血筋の者が、あなただとは。少しも考えてみませんでしたよ、わたくしは」  その口調にこめられた皮肉に、フィリエルは少々困惑した。 「アデイルが来るべきだったのでしょうか」 「アデイルでも、レアンドラでも……最初にユニコーンを見たほうに、わたくしはこの腕輪を遺《のこ》すつもりでした」  オーガスタ王女はもう一度ため息をついた。 「まさかあなたが現れて、別の女王試金石をたずさえてくるとは。グラールの行く末も、これでわからなくなりましたね」  居心地が悪くなり、フィリエルは小声で言った。 「おっしゃる意味がよくわかりませんが。わたくしがここへ来た目的は、女王家のあれこれとは無関係なものですし」 「それは、マルゴットの手紙でよくわかっています。それでも、あなたに感応したユニコーンの子は、もう取り返しがつかないでしょう。あるいはとあれこれ試みてみましたが、どうやらむだのようです。あなたは、この子どもにとって決定的なときに来てしまいました。森であなたを探し当てたとき、決着がついてしまったのでしょう。わたくしは、もっとこの子のそばにいるべきでした」  オーガスタ王女の残念がり方は堂々としていた。冷静な口調で王女は続けた。 「その子はあなたにさしあげます。というより、そうするしかないのです。ユニコーンは雑食性ですし、もうかなり自分で食べますから、あなたであってもなんとか育てられるでしょう。雄なので、やや手がかかりますが、育て上げれば先は楽しみなユニコーンです」  フィリエルはあっけにとられ、夜だということを忘れて声を大きくした。 「どうしてそういうことになるんです。女王試金石とは何なのです。わたくし、いやいやもってきたのに……ユニコーンをいただくことなどできません。旅の途中ですし、まだこれからカグウェルへ行って、しなくてはならないことがあるんです」  王女は皮肉に眉を上げた。 「あなたが拒んでも、その子どもは早晩飛び出して後を追っていきますよ。試してみますか?」 「それなら、わたくしの石をここへ置いていきます。どうぞあずかってください」 「むだです。ユニコーンの子は、しきりにあなたを嗅いだでしょう。あなたの匂いをもう覚えているのですよ」  呆然として、フィリエルはしきりに頭を押しつけてくる灰色の子をながめた。この子はいやおうなく、フィリエルに結びつけられてしまうのだ。そんな強制力があっていいものか、フィリエルにはよくわからなかった。 「ユニコーンとは、いったいどういう生き物なのです。女王家に深くかかわるのでしょうか」  息を吸いこんでたずねると、オーガスタ王女は顔を上げ、その瞳がランプの明かりを映じた。 「ユニコーンは初代女王の遺産、そして、諸刃《もろは 》の剣というべきものです。けれどもわたくしは、この神秘的な生き物をだれよりも深く愛し、交配に心血をそそいできました。もしも彼らの数を増やし、集団の組めるものにできたなら……」  そのとき彼女は、やつれた顔と作業衣のような乗馬服にもかかわらず、一瞬女王であるかのような風格を得た。 「世界のかぎを握るのは、ユニコーンを動かせる人なのですよ」  フィリエルはその発言を心にとめ、考えようとしたが、うっかり口をすべらせた。 「わたくしは、竜が世界のかぎを握ると聞いたのですが」  オーガスタ王女は口をつぐみ、しげしげと少女を見つめた。それから、吐息とともに言った。 「そうも言います」 「それは、竜もユニコーンも同じものだということでしょうか」  フィリエルはたずねたが、王女はゆっくり首をふり、低く乾いた声で言った。 「手なずけられる竜など、この世には存在しません。もう、これ以上のことを教えるとは思わないでください。結局のところ、わたくしはあなたの母ではないのですから」  フィリエルには、うなずくことしかできなかった。  翌朝から、ユーシス・ロウランドの受難がはじまった。フィリエルは見にいくわけにいかなかったが、顔を知られていないイグレインは、ちょいちょいしのんでユニコーンの囲いへ行って、見物して楽しんでいた。そして食事どきになると、フィリエルに逐一《ちくいち》報告してくれるのだった。 「王女殿下は、かなり意地悪ですよ。一番大きな紫の雄を若君に示すんですもの。あの雄ときたら、若君を、半日飼育場の中にすら入れませんでした。お気の毒ですよね」 「ユーシス殿は、雄を得ることをあきらめないようです。もう十回以上ふり落とされています。若君が背にのるまで、角を押さえている兵士たちも命がけです。あんな調子で進展するのでしょうか」 「今日は助手を遠ざけて、一日にらみあっていました。双方、動きもしません」 「ガーラントという小隊長の男が、別の囲いで、緑色の雌を乗りこなすことに成功しましたよ。ユーシス殿のほうはまだです」  しかし、難儀なのはユーシスばかりではなかった。フィリエルもまた、ユニコーンに手を焼いていた。オーガスタ王女は、男たちに幼獣を見せたくないと言い、子どもの世話をさっさとフィリエルに押しつけたのである。 「もうあなたのユニコーンですよ。今のうちに、餌をやるこつを覚えておきなさい」  あるとき、フィリエルの部屋をたずねたイグレインは、部屋にユニコーンの子が居座っているのを見て仰天し、その顔をしかめた。 「なんです。なんでこれがここにいるんです」  かたゆで卵を手にしたフィリエルは、力なく答えた。 「この子はわたくしにまかせるですって。わたくしたち、これから、子づれで旅することになりそうよ」 「ええっ、冗談でしょう」  イグレインのあげた声は、さも迷惑そうだった。 「騎乗することもできないユニコーンに、何のメリットがあるんです。わたくし、めんどうみられませんよ。あまりそばにいてほしくないくらい」 「慣れてほしいんですけど……わたくしもがんばるから」  フィリエルは言ったが、声に説得力がなかった。イグレインは眉をよせたままだった。 「旅は何かと物入りなんですよ。その大食いしそうな子どもの餌は、これから、わたくしたちの負担になるわけですか?」  フィリエルが卵をむくのを待ちかねて、ユニコーンの子はさいそくの口を開けた。例によって、顔半分を下に落としたようにあごが開く。  イグレインは指さして叫んだ。 「ああっ、この口がいや。これが気味悪いんです。どうしてこんなに口が大きくて、歯がたくさんあるんです?」  フィリエルの目から見ても、口を開けたユニコーンはかわいくなかった。あごの内側はなんだか毒々しい赤紫で、奥のほうに尖った舌がうごめいている。そして、こんなに幼いにもかかわらず、あごの上下にびっしりと歯が並んでいるのだ。  一つ一つの歯は小さいがよく尖っており、あやまって噛まれると、ただではすまないと教わっている。幼体のうちにこうなら、成長したユニコーンの歯はおして計るべきだった。  肩をすくめたくなりながらフィリエルは言った。 「あのね、ユニコーンはなんでも食べるから、餌の確保はそれほど問題ないと、王女殿下はおっしゃるの。南の森では自分で餌もとれるって……」  冷静になろうと努めながら、イグレインはたずねた。 「いったいどんなものを、自分で食べるというんです」 「その、王女殿下のおっしゃるところでは……昆虫、クモ、トカゲ……蛇」 「いや! もっと許せない」  嫌悪もあらわなイグレインをよそに、ユニコーンの子は幸せそうに卵を丸飲みし、目をくるくるさせた。フィリエルはため息をついた。 「わたくしも、つれていくのは、あまり賢明ではないと思うの。でも、なつかれてしまった以上、責任をとらなくてはいけない気もするし」  深刻な顔でイグレインは言った。 「ねえ、フィリエル。これはもしかしたら陰謀ではありませんか。陰謀でなくとも、ロウランド家に対する嫌がらせとか。ユーシス殿のご様子を見てもそうですもの。南部のダントン家が、密かにチェバイアット家にくみしていても、不思議ではないんですから」 (……一理あるかもしれない)  思わず同意したくなるフィリエルだった。      五  それが南部の嫌がらせだったかは、最後まで不明だったが、真っ向から挑戦をうけたユーシスは、ほとんど満身|創痍《そうい 》になっての三日三晩の末、庭で一番大きなユニコーンをとうとう根負けさせた。  淡い紫の毛並みに銀のたてがみという、アーサーと名づけられた猛々しい雄が、しぶしぶながらユーシスのたづなを受け入れると、アーサーの三頭の妻たちは、これまた見違えるようにおとなしくなった。  ガーラントにロット、副長のウィールドといった男たちがアーサーの妻たちに乗り、半日かけて乗り馴らした。そのころには、一行がつれてきた馬たちもユニコーンの匂いに少し慣れ、パニックを起こすことはなくなったようだった。 「若君もお三方も、まだ少しふり回されていらっしゃいますが、四頭のフォーメーションは見事です。驚きました、ユニコーンの雌はリーダーに絶対服従なんですね。あれならたぶん、お三方が背に乗っていなくても同じですよ。アーサーだけを、そちらへ向かせればいいんです」  イグレインが伝えにきたが、それが最後の報告だった。すでに館を出発する用意が整っていた。  ユーシスがユニコーンを克服したように、フィリエルもまた克服しつつあった。灰色毛の子どもを、自分でひきうける覚悟ができあがってきたのだ。 「名前をつけたの。ルー坊というのよ」  子どもの頭をなでてやって、フィリエルはイグレインに言った。 「けっこうかわいい顔をしているのに、だれからもかわいいと思ってもらえないところ、なんだか親しみがわくでしょう」 「よく、わかりませんが」  イグレインは解さなかったが、つれていくのを拒めないことだけは、いやいや認めたようだった。 「このちびが、わたくしたちの足をひっぱる気がしてならないのですけれど。もう、言ってもしかたありませんね」  ギルビア公爵は、ユーシスたちを門から送り出すといそいそと館へもどったが、オーガスタ王女は少女たちのことも見送ってくれた。馬車に乗りこんだフィリエルたちに、王女は言った。 「これは竜騎士一行にもお話ししたことですが、与えたユニコーンを、たとえ死なせることになっても、わたくしどもは苦情を申しません。竜退治のために飼い育てた生き物です。ただ一つ、覚えておいてほしいのは、ユニコーンは野生にもどらないということです」  フィリエルは王女の腕輪を見つめた。 「それは、石の呪縛ですか?」 「いいえ、たとえ人になつくことを忘れても、ユニコーンは、自然のなかで繁殖できない生き物なのです。この館を離れれば、彼らは一代かぎりです」  王女は、荷隊に乗って荷物に足をかけているユニコーンの子を、哀れむように見つめた。 「その子は、特に独りぼっちです。雌だったら、場合によってはもどってきて、ファミリーを得ることもできたかもしれませんが、雄には無理です。だから、できるだけやさしくしてやってください」  オーガスタ王女に約束し、門で別れを告げてから、少女たちはしばらく王女の語ったことを考えた。馬車がかなり進んでから、フィリエルがつぶやいた。 「どれほど南へ行っても、ユニコーンと同じものを見かけることはないのね。自然のなかでは生まれないなんて。それではまるで、王宮のバラと同じだわ。人が手がけた、あるがままではないもの。つまりそれは異端ということではないかしら」  イグレインは肩をすくめた。 「何であれ、できすぎていますよ。ギルビアの館でしか生まれないなんて。ユニコーンの稀少価値は、ダントン家が完全に独占できるというわけです。あの館には、何か特別なものがあったんでしょうか」 「わたくしたち、もっとよく館の内を見てくるべきだったわね」  フィリエルが残念がって言うと、イグレインはおかしそうな目で見た。 「夜中にしのび歩いても、何も変わったものは見られませんでした?」 「いやだ、知っていたの」  フィリエルはやや後ろめたく見返した。 「イグレインも、眠れなかったの?」  彼女はそれには答えなかった。少し間をおいて、さりげなく言った。 「わかっています? わたくしはあなたの騎士としてついてきたんですよ」  フィリエルには思いもよらなかった。 「あなたは女の子よ、イグレイン」 「それは言いっこなしです」  イグレインは会話をうち切った。  ギルビア領主館の南には、もう大きな町が一つあるだけだ。街道沿いの国境の町シスリーである。石造りの城塞をかかえた町では、当然ながら竜騎士の出陣を待ちかまえ、再び人々がごったがえしている。  どうやらここには、わざわざ出張してきた追っかけどもがたくさんいるようだった。宿はどこも満員だったし、街並みから計る以上の人数が道にあふれている。もっとも、今やユーシスたちは、この上なく派手なユニコーンを四頭も引きつれているのだから、もう一度見物する価値があるのは事実だった。  フィリエルとイグレインにとっては、国境の検問が厳しくなったことで、これはたいへんな迷惑だった。後先の考えなく竜騎士について行きたいファンが、他にもあれこれいたらしいのだ。騎士たちが城門を通過した後は、出国の順番待ちをさせられ、いっこうにらちがあかなかった。  フィリエルは、ユニコーンの子が足をひっぱると言ったイグレインの言葉が、そろそろ身にしみはじめていた。  灰色毛の子どもは、お腹が空くととにかくうるさいのだ。間断なく耳元でピイピイ鳴かれると、気が狂いそうになる。しかも手を放すと、馬車から飛び出してどこかへ行ってしまうのだ。  城門を出るための順番待ちの間、フィリエルはあるものを手当たり次第その口に押しこんでいたが、とうとう食べさせるものがなくなってしまった。後は、再び鳴き出す前に門を通過することを祈るばかりだった。 「そいつはいったい何だね。新種の子ヤギか?」  フィリエルたちの馬車をあらためた、国境警備の衛兵は、無理もないことながら質問した。 「そのようなものです。愛玩《あいがん》用です」 「見かけないものだが、輸出禁止物品のリストに載っていないかどうか、確かめなくては」  衛兵は、指をなめて|分厚《ぶ あつ》い書類をめくりはじめた。レイディ・マルゴットの印章は使えない。その特権は国内のもので、国外へ出るためのものではないのだ。フィリエルたちは待っているしかなかった。  そのうちに、ユニコーンの子がむずかる気配を示しはじめた。フィリエルは抱きかかえ、膝の上にぎゅっと押さえつけたが、通じるものではなかった。彼はとうとう喉の奥で鳴くのをやめ、かぱっと口を開けた。  衛兵がぎょっとふりかえる前に、フィリエルは必死でユニコーンのあごを閉めた。そのため、衛兵は不審そうな顔をしただけだったが、つかまえておく手がお留守になった。あっと思ったときには、ユニコーンはひと跳ねし、馬車の外に降り立っていた。 「だめ、もどりなさい!」  叫んでも、ユニコーンの子がフィリエルにすり寄ってくるのは、彼女が餌をもっているか、お腹がくちくなったときだけなのだ。城門前の広場を見回し、ぴょんと後足を蹴った。 「その子をつかまえて!」  フィリエルはあわてて馬車を飛び降りた。そのとき、手すりに引っかかって帽子が脱げた。  彼女がきちんと髪をまとめていたら、違ったのかもしれない。ところが、上手にピンをさしていなかったおかげで、波うつ髪がいっきにほどけ落ちた。 「フィリエル、ちょっと」  帽子をつかんでイグレインもあわてたが、衛兵はフィリエルを見て、息を吸いこんで言った。 「なあんだ。あかがね色の髪の乙女じゃないか。あんたがそうだったのかい」  出国の手続きを待っていた男の一人が、すっ飛んでいくユニコーンの子をうまく押さえてくれたが、その年配の男も、あやまるフィリエルに笑顔で言った。 「バラッドには、こんな珍妙なペットは歌われていなかったな。さっそく付け加えてもらわなくてはいかんなあ」  衛兵がフィリエルを手まねきした。 「そうとわかれば、さあ行った行った。あんたがたは、竜騎士の御一行に早く追いつかにゃならん。でも、その前にサインくれるかな——台帳ではなく、ここのところに」  衛兵が示したのは、なんと自分のシャツだった。他にどうしようもないので、フィリエルはサインをすませ、城門を通してもらった。そうして無事にグラールを一歩踏みだしたが、ばんざいの声を背負ってまでの出国になるとは、予想だにしていなかった。二人とも赤面しつつ、逃げるように馬車を急がせた。 「評判に助けられたかっこうですね」  イグレインは言ったが、気むずかしげだった。 「いいんですか、こんなかたちで。それこそ無事にはすまされませんよ。もしもあなたとユーシス殿が、凱旋《がいせん》してこの門をもどってくるときには」  フィリエルには、何とも答えられなかった。  高い石垣で隔てられた城壁をくぐり抜けてしまうと、壁の向こうとこちらでは、いっさいが異なっている。初めて国を出る少女たちは、目の前に広がる、あまりにさびれた風景に少々息をのんだ。  石だたみの道は、門を出たところでぷっつりととぎれていた。小さな広場には、人の姿も見当たらない。国境のカグウェル側に町はなく、公共の施設もなく、遠くに草ぶきの人家が細々と見えるのみだった。すぐそばには、分厚い森がせまっている。  でこぼこの道が、淋しくその森に消えていた。それでもこれが本街道であり、通ったばかりのひづめの跡や轍《わだち》がくっきり残っている。カグウェルの首都ケイロンへ続く道であることは確かのようだった。 「出入国の手続きはケイロンで行うって、こういうことだったのね」  レイディ・マルゴットから聞いた話を思い出して、フィリエルはつぶやいた。警備兵もまったく見かけない。たぶん、衛兵は、南側の危険な国境地帯に配備することで手いっぱいなのだろう。 「こうなると、馬を急がせて竜騎士の一行に追いついてしまったほうが賢明ですね。もう国を出てしまったからには、ユーシス殿も、おいそれとわたくしたちを追い返すことはできないでしょう」  イグレインが提案し、フィリエルも少し考えたが、すぐに首をふった。 「いいえ、まだだめ。竜が出没した場所は、ケイロンよりも南にあるのでしょう。ユーシス様には、わたくしたちを都に留めおくことができるわ。本当に追い返せなくなるのは、都を通過したその先のことよ」 「わかりました」  イグレインは反論しなかったが、少し間をおいてつぶやいた。 「フィリエル——本気なんですね。あなたは」 「わたくしは初めから本気よ。なんだと思って?」 「いいでしょう。やってみますが」  馬車のたづなをくりながら、イグレインは横目でフィリエルを見た。 「あなたときたら、手持ちの食糧を山ほどユニコーンにくわせてしまったじゃありませんか。こんなことが続くなら、有無を言わせず、あなたにもユニコーンにもトカゲを食べてもらいますよ。いいですね」  ユニコーンの子どもをつれて旅をするのは、実際楽ではなかった。彼らが引き具を受け入れるのは、大きくなって餌をとる間隔が間遠《ま どお》になってからだとオーガスタ王女が言ったが、そのとおりで、首輪とひもをつけてみても、数時間が限度だった。彼が本気で噛みにかかると、革ひもであっても役に立たないのだ。  何度も後を追っかけ回し、疲れはててから、フィリエルもようやく学習した。ユニコーンの子は森に消えても、自分から馬車のもとへもどってくる。特に夜になれば、イグレインが「もうもどってこなくていいのに」と言っても、いつでもちゃんと帰ってくるのだった。  フィリエルがどんなに移動していても、子どもにはわかるらしかった。何日かして、フィリエルも、そういうものだと思えるようになった。ユニコーンの子は森で、自主的に餌を見つけることを急速に覚えつつあるようだった。  だが、それはそれで喜べないこともあった。ユニコーンが生き物を捕らえる様子は、馬にはけっしてあり得ないもので、目にした少女たちを落ち着かない気分にさせるのだ。  地グモを巣から追い出してぱくりと食べる。焚き火に飛んできた太った蛾《が》を、ジャンプして飲みこむ。ふと気づくと、あごの端に細いしっぽが下がっていたりする——などなど。  灰色毛の子どもは、夜にもどってくると長々とさえずり、フィリエルに甘えかかったが、イグレインは前にもましていやがったし、フィリエルでさえ、何を食べたかわからないその口には、さわりたくないような気がした。  それでも、食糧を減らすことは目に見えてなくなったので、イグレインも文句は言えなかった。そればかりではなく、気色の悪ささえがまんすれば、ユニコーンをそばに置くのはそれほど悪いことでないことが、徐々にわかってきた。  ある夜、ごそごそいう音にイグレインが目をさますと、すぐそばで、ユニコーンの子がおもしろそうに、のたうつ蛇を踏んづけていた。ランプをかざしてみると、くさり模様のあるその蛇は大きいものではなかったが、要注意の長虫《ながむし》だった。 「フィリエル、起きて」  イグレインは鋭い声でうながしたが、フィリエルはもう目をさましていた。ただ、硬直して声をだせないでいたのだ。まともに蛇を見たのは、これが初めてのフィリエルだった。  蛇は苦しまぎれに踏まれた前足にからみつき、牙をたてたが、ユニコーンの子は驚きも痛がりもしなかった。しげしげと見てから、おもむろに、しっぽのほうから食いちぎった。 「あんなことをして、大丈夫なんでしょうか。あれは毒蛇ですよ」  イグレインは口もとを押さえて言い、フィリエルは目をまるくした。 「まあ、どうしよう。子どもだから知らないんだわ」  しかし、少女たちの懸念をよそに、翌朝になってもルー坊は元気いっぱいだった。足も腫《は》れず、腹を下した様子もない。毒には耐性があるらしかった。 「げてもの食いにも、役に立つところはありますね。わたくしたちが噛まれたら、ただではすまないところでした」  イグレインがしぶしぶ認める言い方をしたので、フィリエルは笑った。 「じゃ、この子も、小さいけれども騎士ではあるのね」  それは冗談から発した言葉だったが、フィリエルは身につけた石のことを考えて、ふいに確信した。女王家はユニコーンを、みずからを守るために育てたに違いないのだ。 (その目的は、いったいどのあたりにあるのだろう……)  自分とはかかわりないと思いながらも、フィリエルは考えてみずにはいられなかった。  カグウェルの首都ケイロンは、都市全体を城壁で取り囲んでいた。夜ともなれば都門を閉ざし、通行する者を|遮断《しゃだん》するしくみだ。  竜の侵入を防ぐためのものと思えたが、都の中央にそびえる王宮にさらに堅固な城壁があり、水をたたえた外堀を、はね橋を使って行き来するところを見ると、どう猛な人間の侵入も警戒しているかもしれなかった。カグウェルの王家は、グラールほど息の長いものではなく、ころころと首がすげかわっているのだ。  都門の内側は、やや雑然として狭苦しかったが、首都ならではの活気は充分に感じられた。中央広場の市には露店がにぎやかに並び、人々がごった返している。フィリエルとイグレインはここで必要品を買いこんだが、都見物をする暇はなかった。竜騎士の一行は、彼女たちがケイロンに着いたその日に、南の城門を出ていたのだ。  ユーシスたちも、のんびりすることはできなかったのだった。ケイロンの王城に、カグウェル王エイモスは現在不在だった。王みずからが南の現地へ向かうほど、竜の被害はままならなかったのだ。  もっとも、首都の庶民は、竜の来襲にある程度慣れきってしまった人々で、市の|喧噪《けんそう》にそれほどヒステリックなものはなかった。たぶん、自分たちは壁に守られているせいだろう。物価が上がると憂《うれ》えてはいたが、グラールの支援も駆けつけたことだし、嵐を頭上にやり過ごせば、いつか復旧すると考えているようだ。  フィリエルたちと世間話をした露店の主人は、竜の来襲がひどくなると、不在がちの王家はつけねらわれやすくなり、隣国のバーンやトルマリンに|隙《すき》をつかれることのほうが心配だと言っていた。そんなものらしかった。  ただ、フィリエルたちは、南側の都門へと急いだところで、城壁の内にも外にも群がっている、テントや掘ったて小屋に暮らす人々を見かけた。難民——竜に土地を奪われて逃げてきた人々だった。地べたに寝る、やせてやつれた一家の様子は見るからに悲惨で、中央市の人々ののんきさが信じられなかった。 (でも、人のことは言えない。グラールの国民だって、何も考えずに豊かに暮らしているのだもの……)  フィリエルは思い、あえて憤慨しないことにした。少女たちの馬車は足早に都門を通り抜け、その先へと向かった。これからは、全速力でユーシスたちを追いかけていいのだ。  イグレインがたずねた。 「フィリエル、ロウランドの若君を守るという、このとほうもない思いつきに、何か計画はあるのですか?」  フィリエルの口調はさばさばしたものだった。 「当たって砕けろのつもりよ。臨機応変にいきましょう」 「臨機応変……」 「ユーシス様に代わって竜退治するとか、ユーシス様が竜に向かうのを阻止するとか、そういう愚《ぐ》にもつかないことを夢想しているわけではないのよ。伝統にのっとって、見事に竜を倒すことは、ユーシス様が成功なさらなくてはいけないことだし、実際成功させるかただと信じているわ」  道のゆくてに目をすえて、フィリエルは言った。 「ひきかえとなる命の危険すらも、ユーシス様のりっぱな権利だわ。ロウランドの奥方様だって、それを侵《おか》すことを期待していらっしゃるわけではないと思うの。わたくしは、あのかたのお手柄のじゃまにならないように、けれども、あのかたがむだに命を落とすことのないように、とにかくその場にいなくてはいけないのよ——騎士のたてまえのない、自由な者の立場で」 「なるほど……予測はたちませんね」 「ええ、わかっていることは、とにかくそばにいて見届けること。それからよ」  雲をつかむ話ではあったが、イグレインはそれ以上聞くのをやめ、馬の足を速めることに専念した。  ケイロンの南へ出てから、気候はまたいちだんと温暖になった。昼間はむし暑いと言ってよい。雨は定期的に激しく降るようになり、それはたいてい、午後を回ったひとときだった。森はいちだんと密になり、知らない植物が雑多に伸びている。  ユニコーンの子は、前ほどひんぱんに飛び出さなくなった。少し大人になったのか、南の森のトカゲやクモが太っているのか、もっと大きな餌を捕獲できるようになったのかは、あまりさだかではない。  鼻のまわりをなめながらもどってくると、ルー坊は、あいかわらず馬車の荷台に乗って楽をした。彼の体は、ギルビアの館を出たときに比べると大きくなっており、そろそろ馬には気の毒なふるまいだった。  途中の村で、カグウェルの王軍の駐留場所を聞き、グラールの騎士たちもそこへ向かったことを聞いた。それからは、街道も満足なものではなくなり、ルー坊を荷隊から下ろすばかりではなく、フィリエルたちも歩かなくてはならなかった。  ゆるやかに波うつ土地の勾配《こうばい》をやや登ったところで、兵士たちの野営する空き地が見えてきた。赤と黄色の天幕が建ち、褐色の兵服を着たカグウェル兵がそこここにいる。イグレインはとたんに興味を示し、うれしそうになった。 「野戦地ですよね、本物の。とにかく仲間に入れてもらいましょう」  カグウェルの兵士は、二人がグラールから来たとわかると、つべこべ言わずに同国人のもとへ案内した。フィリエルはどきどきしたが、以前ドリンカムであったように、怒り狂ったユーシスにいきなり直面する事態は避けられたようだった。着いたその場に、ユーシスやロット、ガーラントといった主要メンバーはいなかった。  そこにいたグラールの兵士は、自分たちの天幕の整備にいそしむ者たちだったが、ぞろぞろと物見高く集まってきた。彼らは、フィリエルが帽子を脱ぐのを見ると、いっせいにため息をついた。 「まさかと思っていたのに。バラッドのとおりだったとは……」  イグレインが自分について宣言した。 「わたくしは、クリスバード男爵を追いかけてきたのではありません。このかたの身をお守りしにきたのです」 「身を守るって……竜からかい?」 「その他にもいろいろです」  フィリエルは、声をはげまして兵士たちに言った。 「ご迷惑をかけるつもりはありません。わたくしたち、自分で自分の責任をとります。でも、このことは当のユーシス様に直接お話しして、わかっていただくつもりです。あのかたにはどこへ行けば会えますか?」  兵士のなかの年配の者が、ていねいに答えた。 「若君たちはユニコーンをつれて、この先まで行っておられます。あれらは、王の馬どもといっしょに野営をさせられんのでして。もうじきもどられるでしょうが、ここで待たれてはいかがです」 「いいえ、こちらから行ってみます」  フィリエルがそう言ったのは、もしもユーシスがまた|怒鳴《どな》るなら、周りに多く人がいないほうがいいと思ったからだった。 「やめたほうがよろしいのでは。ユニコーンには、仰天するに違いありませんよ」 「平気です。もう知っていますから」  フィリエルとイグレインが荷馬をあずけて去ろうとすると、ユニコーンの子がぴょんと跳ねて後に続いた。若い兵士の一人が、興味を抑えきれないようにたずねた。 「その、灰色の毛玉のちびは、いったい何なんです」  イグレインがさりげなく答えた。 「お気になさらずに。害虫よけです」  その先は再び森になり、ユニコーンの子はうれしそうだった。茂る木々をジグザグに走り抜け、掘り出し物があるかどうかを調べている。ときおり立ち止まり、顔を上げて遠くの匂いを嗅ぐ様子は、親ユニコーンが近いことを感じているように見えた。  フィリエルたちはユニコーンの子を先に立て、その後についていった。それが一番確かに思えたのだ。ところが、何の前触れもなく、空気を切り裂くものが飛んできてユニコーンの子をかすめた。そばの木に勢いよくささったところ見ると、白い矢羽だった。 「ルー坊!」  フィリエルは叫んだが、ユニコーンの子はきょとんとしている。自分がねらわれたとは思わないらしいのだ。あせったフィリエルは夢中で駆け寄り、灰色の子どもを抱きかかえてうずくまった。そのとき、さらに矢が飛んできた。その矢羽が切る風を、フィリエルは伏せた首筋にじかに感じた。 「フィリエル!」 「フィリエル嬢!」 「お嬢さん!」  三人または四人が同時に叫び、木々の間からユーシスとロットとガーラントが、それぞれ肝を冷やした様子で飛び出してきた。フィリエルの前に立ったユーシスは、彼女の無事を見てとると、|安堵《あんど 》のあまり毒気をぬかれて言った。 「なんてことをするんだ。君に当ててしまったかと思った。フィリエル、どうしてこんなところにいるんだ。どうしてこんな無茶を——いったい何を考えているんだ」  フィリエルは腹が立ったので、危なかったことを忘れ、他の全部も忘れてしまった。噛みつくようにユーシスに言った。 「なんてことをすると言いたいのはこちらです。ことわりなしに矢を射かけるなんて。この子を殺すおつもりですか。王女殿下がわたくしに、特別にくださったものを」  ユーシスはたじろいた。 「そんなこと、わたしにわかるわけがないだろう。われわれは、ユニコーンの餌を狩っている最中だったんだ」 「餌ですって。ばかなことを。ユニコーンの子どもを、ユニコーンの餌にするつもりだったんですか」  フィリエルがますますいきりたつと、ユーシスとロットとガーラントは、信じられない目で灰色の子どもを見つめた。 「ユニコーンの子ども? こんなのが?」  フィリエルとイグレインとともに、四頭のユニコーンのもとへ行き、ユーシスたちは納得せざるをえなかった。ルー坊が恐れげなくピイピイ声であいさつすると、雄のアーサーは無視したが、それでも追い払おうとはせず、雌の三頭は鼻先を下げてかまってやった。 「まいったな……子どもか」  オーガスタ王女殿下は、男性陣にとってもたいへん手ごわい婦人だったのであり、彼女がフィリエルにユニコーンを与えたとなると、理由は不明ながらもおろそかにはできないことだった。  ユーシスといえども、フィリエルにわび、あれこれと質問した後になっては、ここまで来た彼女の行動を|叱責《しっせき》する機会を逸していた。ロットとガーラントは、肩をすくめるばかりだ。だれも喜んでとは言えなかったが、とりあえずは野営地へもどり、起きてしまったことではなく、これから起きることを考えるしかなさそうだった。  夕食を分け合い、寝支度をするころになって、ようやく考えをまとめたユーシスが、フィリエルに話をしにきた。  ロウランドの赤毛の貴公子に、フィリエルを頭からとがめだてするつもりは既になかったが、多くの困惑をかかえていた。彼女をイグレインと二人の天幕から呼びだし、夜の木立で向かいあったユーシスは、その困惑をこめて言った。 「フィリエル、君がだれのさしがねでここにいるのか、わたしにはどうしてもわからないよ。君自身の意図とは、とうてい思えないんだ。君はわたしの婚約者ではない——バラッドがあると聞いたが、そんなものは無視できる。真実とは無縁だし、ああいったものを喜ぶ連中は、真実かどうかを気にするものではないんだ。しかし、女性の君にとっては、わたしほどに痛くもかゆくもないと言うわけにはいかないだろう。この地の危険は言わずもがなだが、君はきっと後悔することになる。どうしてこんなことをしたんだ」  フィリエルは、落ち着いて答えた。 「わたくしの意図です、ユーシス様。だれにも強制されていません。みずから選んだことですから、何が起きても、後悔することもありません。だから、お気になさらずともいいんです」 「何のために?」  心もとなそうにユーシスはたずねた。 「君がわたしのために来てくれたことを、うれしいと考えるべきなんだろう。だが、やっぱりわたしには不審だよ。これが君の望みなら、何のために危険を冒してここへ来たんだ」 「わたくし、竜が見たいんです」  ユーシスを見上げ、フィリエルは両手を組みあわせた。 「父もきっと、そのために南へ向かったのだと思います——今も、生きているかどうかはわかりませんけれど。だから、わたくしの目で、一目でいいから竜を見たかったんです。わたくしに竜を見せてくださいませんか、ユーシス様。決して足手まといになることはしませんから」  しばらくの間、ユーシスは思案した。 「学者の頭のなかは、わたしなどには理解不能だが。けれども、君は学者の娘として、竜をながめればそれで満足するんだね。本当にそれだけ?」 「ええ、ぜひ見たいんです」 「危険なことはしないね?」 「しません」  もう少しためらった後に、とうとうユーシスは言った。 「明日、王とわれわれは、分担をさだめて竜退治を開始する。竜が荒れ狂いはじめたら、とても寄せつけられないが、戦闘前までならついてきてもいいよ。われわれが打ってでたら、君たちは安全な場所にとどまるんだ。約束できるね」 「ありがとうございます」  フィリエルがほっとすると、ユーシスも笑顔になった。 「君は、怒るとアデイルみたいに無敵に見えるな。ユニコーンの子のことで怒ったとき、そう思ったよ。思い出してみれば、最初の舞踏会のときからしてそうだった。あれが女王家のもつ共通点なのかな」 「ご冗談でしょう」  ユーシスは気持ちのよい態度で去っていき、フィリエルは胸をなでおろして、イグレインの待つ天幕へもどった。 「思っていたより、ずっとうまくことが運んだみたい。ユーシス様も、少しも怒っていらっしゃらないし」  フィリエルはうきうきと言い、イグレインの顔を見て、あわてて笑みをひっこめた。彼女の表情には、笑いの影もなかった。そうしてフィリエルは、イグレインが、今日の後半からずっと黙りがちだったことに急に気がついた。 「あの……どうかしたの?」  イグレインは、大きく息を吸いこんでから言った。 「フィリエル、わたくしは、ロウランドの若君よりももっとずっと、どうしてと思っているのですよ。今日のあのふるまい。あなたがどうしてここを目指したか、わたくしにはわかってしまいます。あなたは捨て身で、死に場所を探している」 「何を言うの」  イグレインの口調の深刻さに、フィリエルはむりやり笑おうとした。 「そんなはず、あるわけないじゃないの。このわたくしが自殺をしにきたとでも思っているの?」  イグレインは首をふった。 「あなたは自殺をする人ではないのでしょう。自分自身にさえ、そう認めさせはしないのでしょう。けれども、行動の端々にはそうとしか思えないものが透けて見えるんです。あなたは死ぬと言うかわりに、ユーシス殿を助けると言って、自分をごまかしているのですよ」 「あんまりだわ。考えすぎよ、イグレイン。わたくしには、死ぬつもりは少しもないもの」  フィリエルは言い張ったが、そんな彼女を容赦なく見つめてから、イグレインはさらに言った。 「では、あなたの捨てばちさはどこからくるんです。よりよく生きるために必要なものを、何一つ欲しがらないのはなぜです。トーラスにいたころ、あなたはそんな人ではありませんでしたよ。どんなに明るくふるまっていても、わたくしの目にはわかります。旅のあいだ、ずっと観察していたんですから——」  声を低くして、イグレインは続けた。 「あなたが、打ち消しながらもユーシス殿を想っているのではないかと、わずかには考えていました。でも、そうでないことがこれでわかりました。どうして、希望のない淵《ふち》に向かって歩こうとするんです。あなたがそうなったのは、あの人——わたくしたちがルーネットと呼んだあの男の子が、あなたの叔父君を殺したせいですか」 「やめて」  フィリエルは鋭くさえぎった。そして、天幕に降りた長い沈黙の後、息をついて言った。 「イグレイン、今夜それを言うのはやめて。明日にしましょう」 [#改ページ]    第二章 魔術師の弟子      一  夜明けを告げる鳥の声は、まるで森全体が歌い出したようなにぎやかさだった。生き物の豊かさを実感させる声だ。南国の夜明けは、あいまいな薄明の時間が短く、金の鳥が飛び立つように日が昇る。  今さっきは闇だった空が急速に白み、太陽が顔を出すと、露の玉を飾った梢《こずえ》や草の葉は一斉にきらめきわたり、地面に達した日光は、早くも影のレースを編み出した。ここはすでに冬のない土地だった。  あたりが明るくならないうちから、カグウェルとグラールの兵士たちは活発に動き始めていた。陣地を引き払い、竜のいる前線へと移動するためだ。  身じたくをすませたフィリエルとイグレインが、ユニコーンたちを見にいくと、ロット・クリスバードが陽気な声をかけてきた。 「おはよう、命知らずのお嬢さんたち。よく眠れたかい? 昨日はさすがのわたしも、おもしろがることができなかったが、勇敢なグラールの御婦人に敬意を表しないわけではなかったんだ。なにごとも星女神のおぼしめしだからね」  フィリエルはほほえんだ。 「もしかして、ユーシス様を説得してくださいました?」 「少しだけね。だが、あの男であっても、ここで君たちを追いもどしたら体面がよくないことはわかったようだ。君たちはすでに、竜騎士と同じくらい——いや、二の騎士のわたしと同じくらいと言うべきだな——この竜退治で勲功を与えられるよう、決まってしまった人物なんだ。バラッドのせいでね」  緑の瞳に笑みを浮かべ、クリスバード男爵は半分まじめにとれる口調で言った。 「ただし、君たちはこれを忘れてはならない。民衆というものは、悲劇のバラッドをことのほか好むものなんだよ。自分と関係ないことに涙をしぼるのは、たいそう快いからね」  おしゃれ好きの男爵は、地の果ての戦場にいても、周囲の兵士に格段の差をつけてあか抜けた様子をしている。それでも、いつもは結ばない髪を後ろにまとめ、額《ひたい》に革のバンドをしめていた。竜退治に臨んで、|兜《かぶと》と鎧《よろい》を身につけるためだ。彼が、ユニコーンに騎乗する男にふさわしく見えるというのは、フィリエルには少しばかり意外だった。  ただ、返答しようとして気づいてみると、ロットのまなざしは、もっぱらイグレインにばかり集中していた。 「君が——ええと、イグレイン嬢だね。どんなお嬢さんかと、ずっとあれこれ考えていたよ。思った以上の美人が来てくれてうれしいな」 「どこかで誤解が生じているようですが」  イグレインの声音はとりつくしまなく冷ややかだった。 「わたくしは、フィリエル嬢の身辺警護に来ただけであって、その他のいっさいにかかわりありません。そのわたくしの容姿に、どうして注文がつくのです?」 「そうは言っても、君、うら若い乙女がこんな場所まで来るからには、ロマンスの一つもできないはずはないだろう?」 「大きな偏見《へんけん》です」  イグレインはきっぱり申しわたし、ロットの笑顔をにらむと、ぷいと向こうへ行ってしまった。会話の相手をなくした男爵は、しかたなくフィリエルに向きなおった。 「気の強い女の子は、どちらかというとわたしの好みだよ。彼女、時間をかけて|口説《くど》いてみたくなるタイプだね」 「どうでしょう。彼女、|潔癖《けっぺき》ですから」  フィリエルは口調に疑いをこめたが、ロットは気にならない様子だった。 「もちろん、あかがね色の髪の乙女がそのつもりになってくれるなら、わたしは喜んで馳せさんじるよ。戦地では何でも起こりうる。堅物のユーシスばかりがこの場の華でもないしね」  フィリエルが、自分もイグレインにならったほうがいいと思いはじめたころ、ロットはふいにたずねた。 「君がユーシスを追いかけてきた、本当のわけはどこにあるんだい。竜が見たかったと言ったそうだが、それだけで来られるものでないことは、阿呆でなければわかることだ。彼を窮地《きゅうち》に追いこんで、君に何の得がある?」 「窮地に追いこむ、わたくしが?」  驚いてフィリエルは聞き返した。見るとロットは、こんどばかりは冗談を言っていなかった。 「カグウェルの面々はグラール人の余裕に驚いているようだが、内情を言うなら、ユニコーン一つとっても完全に手に収めたわけではないんだ。なのに君たちは、われわれを後に引けなくさせている。御婦人の目の前では、死んでもしくじるわけにはいかないだろう。竜騎士の死を喜ぶのは、バラッドの聴衆と、後はだれなんだ」  ショックがすぎると、フィリエルは眉をよせ、憤慨をこめて言った。 「ユーシス様を死なせにきたのではありません。その逆です」 「でも、君は恋する乙女ではないのだろう」 「では、証明してみせます。女性は恋のためばかりに行動するものではないって」  ロットはふいに、はぐらかすように笑った。 「そんなにむきにならないでくれ。わたしには、君を窮地に落とすつもりもないのだから。わたしたちの武運を祈ってほしい——できれば、やさしく」  フィリエルが息をついだそのときだった。かたわらにガーラントが現れた。体格のよいロウランド家の私兵隊長は、ロットに気軽に声をかけた。 「男爵どの、あまり油を売らないでいただきたいですな。行軍の準備がほぼ整っています。後方に残られるカグウェル王が、若君とあなたとをお呼びでしたよ」  ロットはフィリエルに悪びれないお辞儀をし、笑顔のまま去っていった。彼の別の一面を見たように思いながら、フィリエルはガーラントにそっとたずねた。 「あなたも男爵様と同じ考えなの? わたくしがユーシス様を死なせると思う?」  ガーラントは、日焼けした顔の伸びたひげの下をかいた。 「若君は、そうした方面には平常心のあるお人ですから——ありすぎという話もありますが——自分はそう考えません。ですが、あなたももう少し、御自身の影響力というものをさとるべきですね」 「迷惑がられることは、わかっていたのよ。よく言われてきたもの」  レイディ・マルゴットの予告を思い出してフィリエルが言うと、ガーラントはにやりとした。 「貴婦人には逆らうなと、おふくろに教わっています。『西の善き魔女』と呼ばれる国に生まれたからには、それが処世術だとね。あなたのはねっかえり行動には、再三お目にかかっている自分ですから、ここでまた出会ったのも、すでに宿命でしょう」 「それならあなたは、わたくしがついていくこと、許してくれるのね」  ガーラントは、顔を明るくするフィリエルを見つめ、弱ったように短く刈った頭をかいた。 「自分に権限はありません。ですが、若君は戦闘前までならよいと言われたのでしょう。だから、いっしょに行軍なさってけっこうですよ。馬にはお乗りになれますか?」  フィリエルは胸をはった。 「アデイルよりは」 「では、自分らがユニコーンに騎乗する前に乗っていた馬が空いています。馬たちがついてこられるところまでは、いっしょにいらしてください」  フィリエルがもどってみると、イグレインは黙々と荷物を片づけていた。フィリエルが手伝おうとしても、ふりむきもしない。  昨夜以来の気まずさは、自分から心を解かない限り打開しないと考え、フィリエルは思い切って口を開いた。 「イグレイン、教えて。わたくしは、トーラスにいたころとそんなに変わったかしら」  イグレインはやっとこちらを向いた。赤茶色の髪は、いつにもましてきつく束ねてあったが、彼女の額と眉の形よさを損なうものではない。だが、その表情は硬く、灰青の瞳には不安がこめられていた。 「わからないと言うのでしょう。自分自身のことは、なかなかわからないものですから」  視線を手元に落として、イグレインは続けた。 「わたくしは、ロウランドの奥方様にたのまれたのです。あなたが危うく見えるから、力を貸してほしいと。それから、ずっとあなたを注意して見守っていました。そして、奥方様のおっしゃったことは事実だと思いました」  フィリエルはため息をついた。 「奥方様が……そう、最初の最初から、あなたはそのつもりで来たのね」 「わたくしは、あなたを守る役目を仰せつかりました。でも、一番守らなくてはならないのは、あなたをあなた自身からではないかと、途中で考えたのはたしかです」 「わたくし、死ぬつもりはないの。それだけは信じてちょうだい」  フィリエルは乞うように言ったが、イグレインは静かに応じた。 「ええ。王家の女性が、みずから死を考えるようになったら、そのときは世界の終わりだと言われていますから」  少し間をおいて、フィリエルは告げた。 「わたくしがどう思おうとも、意識できないだけだと言われたら、もう反論はできないわ。昨夜あなたに言われて、本気でびっくりしたけれど、よく考えたら嘘とも言えないことはわかったの。たしかにわたくしは、やけになっているのかもしれない……」  肩で息をつき、フィリエルは、今までだれにも言わなかったことをイグレインに打ち明けた。 「いやだったの。ルーンが人を殺すほどの体験をしたというのに、わたくしが、何もできずにいるのは——みんなに守られて、ぜいたくに包みこまれているのは。だから、ユーシス様を追ってきたかったの。王宮のあれこれなんて、生きている竜に立ち向かうことに比べれば、ままごとにすぎないものよ」  イグレインは疑わしそうに見た。 「王宮にだって、充分生存競争があると思いますが?」 「塗り飾った舞台の下でならね。あそこで踊っていても、何も見えない。踊らせる側になるなら別でしょうけど」  言葉尻を強めてフィリエルは言った。 「ここまで来たことを悔いはしないの。竜を見たいと、ユーシス様に言った言葉は本当よ。来てみて初めて竜騎士の尊さが実感できる。わたくしたちが、グラール国内で目をそむけているものが何かを知ることができる。自分の手で何ができるかを試したいの——何か、わたくしも命のはれることを」 「あなたの自暴自棄が何をまきこむかは、考えてみないのですか」  鋭い口調でイグレインが言った。 「すでに複数の人間が、あなたを守ろうと動いているのですよ。そのことを、少しも考えてみないのですか?」  後ろめたげに一度|睫毛《まつげ 》を伏せたフィリエルだったが、すぐに|琥珀《こ はく》の目を上げた。 「欲しくないと言ったら?」  その口調は静かだったが、ゆるがせないものを感じさせた。 「ただ一人を除いて——欲しくないと言ったら?」  イグレインは長いため息をついてから、かすかに言った。 「その一人とは、わたくしのことではないのですね……」  カグウェルの歩兵はおもに土木《ど ぼく》兵だった。竜の北上を防ぐ防壁が、あちこち破壊されたまま手のつけられない状態だったのだ。報告を受けただけでも、近隣五つの村が全滅し、ひと群の草食竜とそれを追う肉食竜が入りこんだのが確認されていた。  草食竜だけならば、弓矢をもつ歩兵で対応することもできる。だが、肉食竜が侵入したとなると、通常の防備ではどうにもならなかった。天敵に襲われて恐慌状態になった竜の群もまた、甚大《じんだい》な被害をもたらしたのだ。  築いても築いても突破される塁壁《るいへき》の状態に、憂慮しながら戦線を指揮していたカグウェル王は、竜騎士の到着を見て、|安堵《あんど 》をもってしりぞいた。グラールの騎士たちは、どんなけものにもできないことをする——肉食竜に突撃するユニコーンを所有している。だが、決して隣国を不安にする人数では出陣してこないという、暗黙のとりきめがあった。  少数で竜を倒してこその武勲という、グラール人の気どり方は、カグウェルの人間にはあまり理解できないものだったが、それでこそ保たれる友好関係でもあった。さらに喜ばしいことに、その気どりのおかげで、高貴な騎士たちは竜退治の報酬を求めないのである。  カグウェル王の激励を受け、隊列は早朝のうちに動き出した。カグウェルの歩兵が行進する様は、丸い兜と褐色の服のせいで、どことなくアリの行軍のように見える。そして、派手なユニコーンに乗った、やけに華やかなグラールの一行が進み、最後に荷駄を運ぶ兵士たちが続いた。  フィリエルとイグレインは、グラールの騎兵とともに、ユニコーンとは少々間をとって隊列を作っていた。だいぶ慣れたとはいえ、いまだに馬たちをユニコーンといっしょに並べることはできなかったのである。ユニコーンは遠慮なく馬を脅したし、馬はいつまでも|怯《おび》えた。  双方をまったく気にしないのは、ルー坊だけだった。フィリエルは、彼が行軍についてくるかがひそかに気がかりだったのだが、ルー坊は神経質にすらならず、気ままにユニコーンとフィリエルの馬の間を走り回っていた。  馬もさすがに、角もなく小さなルー坊にまでは怯えなかったが、親ユニコーンと同じ調子で足のそばを走られるのは迷惑そうだった。そのうち蹴飛ばされるのではないかと、フィリエルはずっとひやひやした。  ゆるやかな丘を下ると耕作地が見えてきた。ひなびたところだが土地は|肥沃《ひ よく》と見え、谷間に沿って点々と家がある。畑は緑濃い場所と、刈り入れ終えた場所とが入りまじっていた。広野をうるおすまっすぐな水路が、耕す人の苦労をしのばせる。  だが、フィリエルが目をやる場所に働く人の影はなかった。村のそばを通りかかると、そのあたりの住民がとっくに避難したことがわかった。うつろに空いた家々の静けさは、呪われたように悲しいものだった。  ほどなく、前方の歩兵たちが二手に分かれはじめた。彼らの前には、土と木材を粗雑に積み上げただけの、まにあわせの塁壁がある。雑ではあるが長く伸び、谷間を横切っていた。おそらくこれが、今の最終の防衛線なのだろう。 「われわれはまず、草食竜の群を南へ追い立てます。やつらがそのまま走ってくれれば、何ごともおきませんが、途中で肉食竜に出くわせば、そうもいきません」  グラールの兵士の一人が少女たちに説明した。ユーシスたちの乗ったユニコーンは塁壁を迂回し、軽やかな足どりで右手の丘へと向かっている。 「ですから、あなたがたをおつれできるのはこの塁壁までです。よろしいですね、くれぐれもこの先まで出ようなどとは思わないでください」  固く言いおいて、彼もまた後を追っていってしまった。残された少女たちは、しかたなく馬を降りたが、歩兵の数人が塁の上によじ登っているのに気がついて、ひとつ真似てみることにした。  足場がたくさんあるので、木材の棘《とげ》にひっかかれることを別にすれば、その上に登るのは難しいことではなかった。もっとも、二人がフィリエルとイグレインだったからでもあるが。  壁の頂上にとりつき、眺望が得られると、ユニコーンたちが丘のすそから歩み出るのが見えた。藤色の体に銀のたてがみを輝かせるアーサーを先頭に、三頭の彼の妻が同列に進む。ロットが乗るメラニーは黄緑の体に黄色のたてがみ、ガーラントが乗るドーラはうす緑の体に赤のたてがみ、ウィールドが乗るイゾルデは濃い青の体に淡いピンクのたてがみをしている。いずれもつややかに光り、広野で目にしみるほど鮮やかだった。  背にまたがる騎士たちは、いずれも長剣を腰に、円形の盾を肩に、銀の穂先の光る長槍を片手にかかえていた。銀の兜には鳥の尾羽根を飾っており、これが不思議とユニコーンによく調和する。  彼らはまた、グラール独特の軽量の鎧を身につけていた。体の要所を保護するが、どちらかというと機動性を重視した武具だ。長身のユーシスにはその武装姿がたいへん映えていたが、彼は、矢も刃物もうけつけない竜に立ちはだかる者としては、いやになるほど生身に見えた。 (ご無事での一言くらいは、言っておきたかったのに……)  フィリエルは、ユーシスが最後に声をかけてくれなかったことを思って、少し胸を痛くした。もっとも、周囲のだれもが二人の会話を期待して、全身を耳にした状態だったので、フィリエルとしても何も言えるようにはならなかったのだが。  ルー坊はしばらく姿が見えないが、騎士たちのユニコーンについていってしまったのではなさそうだった。おおかた、丘の森のなかでごはんを探しているのだろう。  ユニコーンの四騎は、まっすぐ谷の中央へ進んでいった。そこには、漠然とひとかたまりになっている、およそ十頭ばかりの竜がいた。 (あれが……)  生きて草をはむ竜を、フィリエルはとうとう目にしたのだった。その竜たちは一様に首と尾が長く、馬の三倍ほどのずんぐりした体をしていた。体のわりに頭は小さく、頭上には突起物があり、フィリエルには背びれと見えるようなものもついている。色はつやのない緑で、わき腹に灰色と赤褐色の縞《しま》があった。  この体の大きさでは、餌もたくさんいるはずだとフィリエルは考えた。畑は踏みにじられ、食い荒らされて、まともなものはほとんどない。彼方に壊れた柵と家も見える。  フィリエルが目をまるくしてながめ回しているうちに、そばで大きな破裂音が鳴り響き、塁壁から転げ落ちそうになった。暖炉ではぜた栗を百倍にしたような音だ。 「何、今のは」  だが、驚いたのはフィリエルばかりではなかったようだった。竜の群がいっせいに餌をはむのをやめ、頭を伸ばした。続いて同じ音がすると、見るからにおよび腰になる。 「あの音で竜を追い払うんですよ。きっと」  冷静にイグレインが判断した。そのとおりだったようで、ユーシスたちが、合図を得たように竜の群目がけて突進した。  矢にも動じない竜たちだそうだが、ユニコーンが角をかまえて向かってくると、これにはうろたえた。急に向きを変え、散り散りになる。  逃げはじめた竜を見ると、ユニコーンたちは巧みなチームワークで散開し、竜たちが四方八方へ行くのをはばんだ。四頭で充分であり、その様子は牧羊犬が羊の群をまとめていくみたいだ。 「王女殿下のおっしゃったことが本当ね。雌の協力があるのとないのとでは、雲泥《うんでい》の差だわ」 「そうですね。楽に追い払えそうではないですか」  だが、それがおこったのは、彼らが視界から消え去るよりも早いうちだった。左手の木立が突風を受けたように大きく揺れたと思うと、そこから飛び出したものがあったのだ。ユニコーンたちが誘導する群へ、放たれた矢のように向かう。  一目で群の竜とは違うものであることが知れた。くすんだオレンジのまだらもさることながら、発達した後足で力強く駆け、鉤爪《かぎづめ》のある前足は地面につかない。顔は大きく、あごばかりが目に焼きついた。 「肉食竜!」  それは、たちまち縞の竜の一頭に襲いかかり、首の後ろに食いついて獲物をひねり倒した。草食竜の巨大な体が簡単にころがり、四肢がむなしく空を蹴る。  フィリエルは体が凍りつくのを感じた。竜と自分の距離を意識できない戦慄《せんりつ》だった。このものには、圧倒的などう猛さ、熱烈な殺戮《さつりく》の意志がある。その体躯《たいく 》が、身ごなしが、すでにそれを語っている。あまりに|生粋《きっすい》の残忍さなので、まるで星女神の裏の顔——破壊神のような威容さえ感じられた。そのためだけに生まれ、そのためだけに生きているのだ。  他の竜は、恐怖の鳴き声を発し、さらに死にもの狂いで四方に駆け出した。ユニコーンさえも踏みつぶす勢いだったが、ユーシスたちもそれには備えていた。群をまとめることをあきらめ、きれいに半円を描いて離脱する。  しかし、ユーシスはそのまま離れるものではなかった。彼の乗るアーサーは、逃げる竜をやりすごすと再び回りこんで、肉食竜のもとへともどっていく。  ユーシスの腕には、構えた長槍があった。肉食竜は、他のことは眼中にない様子で、牙をたてた獲物をひきずっていこうとしていたが、突進してくるユニコーンに、ふと動きを止めた。  竜が、脅すように喉の奥で音を立てたようだった。それでもまだらの竜は、食らいついた獲物をなかなか離そうとしなかった。そのいじきたなさが、最終的には命取りになった。  ユーシスは落ち着いて正確に目標を見定めていた。アーサーが相手の胸もとに突っこむその前に、槍は彼の手を離れ、肉食竜の目と目の間に深々と突き刺さっていた。竜が頭をふりあげたのは、その後だ。やみくもにユニコーンに噛みつこうとしたが、アーサーはうまくよけきった。 「ユーシス、二の槍だ」  竜のあぎとを逃れた退治者に、待機していたロットが駆け寄り、あらたな槍を放った。ユーシスは受けとめてアーサーの向きを変えたが、その竜にとどめの必要はもうなかった。数歩よろめくように走ったのが最期で、そのままあごから地面に突っこんでいった。 「やった!」  塁壁の上の兵士たちがどよめいた。身の毛のよだつ思いをしたフィリエルたちも、そのとき呼吸をすることができた。語りぐさになるような見事な竜退治が、今、目の前で行われたのだ。  だが、それはみんなが小躍りをし、口々にほめたたえている最中のことだった。倒れ伏した竜の向こうに、彼らはあらぬものを見つけた。通常は考えられないもの——こちらへ向かって駆けてくる草食竜の群だった。 「どういうことだ——」  しかも、その数は逃げ去った群以上に見える。いずれも口から泡をふく勢いで駆けており、追われているのはまちがいなかった。  ユーシスたちユニコーンの騎士も、呆然としてその光景を見た。だが、たぶん、一番理解が早かったのはアーサーなのだろう。彼は引きぎわを心得てさっさと向きを変え、雌のユニコーンも彼にならった。 「早く逃げろ!」  たまりかねたように叫ぶ兵士の声がし、フィリエルもそう叫びたかったのだが、気がつくと兵士は、フィリエルたちに向かって叫んでいた。 「逃げろ、そこのあんたたち。壁を突破される。早く降りて丘へ逃げるんだ!」  群の蹴立てる足音のとどろきが、地響きのように伝わってきた。頑丈なはずの塁壁がふるえる。フィリエルたちは夢中で足場を下り、兵士にならって半ばからは飛び降り、よろめきながら片側の茂みに向かって走った。  一瞬遅ければ、どうなっていたかわからなかった。すさまじい音とともに木っ端がはじけ飛んだ。人の背丈の三倍に積み上げた障壁であっても、パニックになった竜の体当たりにはかなわない。太い丸太でさえ宙を飛び、ころがって、そばの木立をなぎ倒した。さらには、何もかも踏みつぶす勢いで群れなす竜が通り過ぎる。  フィリエルとイグレインは茂みの陰に伏せ、頭をかかえて、なんとかこれをやりすごした。土けむりがいくらか収まったところで、どうにかお互いに口をきけるようになった。 「ご無事ですか」 「大丈夫。イグレインは?」 「わたくしもです」  少し咳《せ》きこんでから、フィリエルは言った。 「ユーシス様たち、逃げられたかしら」 「あのユニコーンが踏みつぶされたとは思いませんよ。危なかったのは、わたくしたちのほうです」 「ルー坊がいないわ!」  気がついたフィリエルは、顔が青ざめる思いだった。 「どうしよう。わたくしを探して、今のにまきこまれたのだとしたら」 「まきこまれたとしても——どうしようもなかったんですから」  困った様子でイグレインは言った。だが、フィリエルには聞くことができなかった。 「あの子には、わたくしの居場所がわかるのよ。でも、けがをして、来たくても来られないでいたら?」 「だめです、フィリエル。今はまだ——」  制止をふりきって、フィリエルは茂みから走り出した。さっき自分が登っていたあたりへ行ってみる。まともに竜が押し通った後、塁壁は惨状を呈していた。中央部は門を開いたように崩れ落ち、木ぎれが山と散らばっている。ユニコーンの子のように小さなものが下敷きになれば、ひとたまりもなく見えた。 (でも、けものには勘がある。先に逃げたかもしれない……)  自分たちの乗ってきた馬が、とっくに引き綱をちぎって逃げ去った様子なのを見て、フィリエルは考えた。きびすを返したそのとき、小さくさえずる声がした。  はっとしてふりかえったフィリエルは、灰色毛の子どもがぴょんと跳ねるのを見た。だが、動きが少しおかしい。足にけがをしているように見えた。息をのみ、走り寄ろうとして、フィリエルは目の前の壊れた塁壁から、ぬっと巨大な頭を出す、くすんだオレンジをしたまだらのものを見た。  太い鼻づらには照り輝くようなつやがあり、びっしりと細かいうろこがある。瞳は濃い金色で、今はそのまなこで用心深そうに左右を見回していた。その頭の位置は高く、目線も遠くにすえられている。フィリエルには動くことができなかった。動けば必ず見つかる。  腐臭に似た肉食竜の匂いが、フィリエルの鼻をついた。そんなにも竜の近くに彼女はいたのだ。ところがルー坊は、竜に気づかないのか、フィリエルのそばへ来たい一心なのか、すくみもせずにこちらへ来ようとする。ユニコーンの子が跳ねるのに気づき、竜がぴくりと鼻先を向けた。  短い一瞬に、フィリエルは考えた。この竜が灰色毛の子どもをとって食う間に、自分は茂みに逃げこめば助かるかもしれない。助かる道はそれしかなく、それが賢明な選択だ——と。 (でも、いやだ……)  ここで命を落とせば、大みえをきったのが笑いものだ。わかっていても、フィリエルにはできなかった。ユニコーンの子を見捨てることはできない。あれは、独りぼっちのユニコーンなのだ。旅するフィリエルにつきあわされ、フィリエル以外の何ものにも属することのできない、哀れな幼い子どもなのだ。  どうなるかを考えるのをやめ、フィリエルは全力で駆け出してユニコーンの子を抱きとった。そして、ころげるように引き返し、茂みに飛びこむ寸前にはたと立ち止まった。このまま行ったら、イグレインのところへ竜を招き寄せてしまう。  竜の足音は思ったより軽かった。身軽な動きで壁の穴を越えたのが感じられた。ちらりと見たそのときには、竜はすでに前のめりに体をかがめ、悪夢のようなそのあごを、フィリエルに向かって突き出すところだった。  思わず目を閉じ、顔をそむけながら、自分はなんてばかなんだろうと思った。だが、体が痺《しび》れたようになっており、もう動くこともかなわなかった。 (最期に思うことは——)  いきなり耳もとで破裂音がした。竜退治の始まりに聞いた音に似て、もっと連続して鳴る音だ。ユニコーンの子がもがき、ピイと鳴いた。反射的に腕に力をこめ、目を開けて、フィリエルは自分の前に人影が立ち、竜に向かって何かを投げつけるのを見た。  それはイオウ臭い煙を放ちながら、再び破裂音を立てはじめた。めんくらった竜は後ずさり、頭を振っている。 「なんてばかなんだ」  ふりかえった人物は、かんかんに怒った声でフィリエルに怒鳴った。 「鼻先をちょろちょろしたのでは、どんなに満腹の竜だって関心をもつにきまっているだろう」  フィリエルには声も出せなかった。まだあぜんとしているうちに、彼に腕をつかまれた。 「長くはもたない。今のうちに逃げるんだ」  フィリエルはユニコーンの子を抱いたまま、ひっぱられるようにして木立に飛びこんだ。蒼白なイグレインがすぐに寄ってきて、彼からフィリエルをもぎとるようにした。 「フィリエル、あなたって人は」 「ごめんなさい……」  かたわらの人物がせかした。 「今はつべこべ言わないで、もっと木立の奥へ」  イグレインは、カグウェルの兵士と見るには小柄すぎ、カグウェルの兵士らしくない発音をするその人物を、うさんくさそうに見やった。 「だれです、この人」 「ルー坊。じゃなくて……」  フィリエルはまだ頭が回っておらず、とっさに言ったら言いまちがえた。イグレインは彼の顔をのぞきこんだ。なぜなら、おかしな黒ぶちのメガネをかけていたからだ。そしてそこに、覚えのある灰色の瞳を見て身をひいた。 「ルーネット——」 「どっちも気にくわないが、とにかく逃げろったら!」  黒髪の少年は、感動的になつかしい、徹底的に不機嫌な声音で言った。      二  密生した木立をぬって丘を登るうちに、フィリエルはようやく、竜に食われそうだったショックから回復してきた。そうすると、目を開けたらこつぜんとルーンが現れていたことに、また一から驚きなおすことができた。  これは幽霊ではなかった。フィリエルの前を歩くルーンは、茂みを鳴らし、枯れ枝を踏み折っている。着古したカグウェルの兵服を着ており、その茶褐色の上着は、例によって彼には大きすぎるものだった。頭のぼさぼさは、もしかすると、セラフィールドにいたときよりひどくなっているかもしれない。  なんであれ、フィリエルの前から消え去った月日を、彼が彼なりにしぶとく生き抜いていたことは、その様子を見れば察せられた。それを予想していたとは、フィリエルにも言えなかった。彼がどうなってもおかしくない別れ方ではあったのだから。 (あれから、どのくらいたったのだろう……)  フィリエルには日付を数えることができなかった。季節を教えてくれない南の国では、時間の感覚もなくなってしまう。だが、フィリエル自身は隔たりを感じた。自分のことも、あの日と同じ人間とは思えないような気がする。  フィリエルは、今度ルーンに再会することができたら、思いきりひっぱたくだろうと思っていた。そうでなければ、思いきり抱きしめるだろうとも思っていた。けれども気がついてみると、どちらでもなく、ルー坊を抱きしめておとなしく後ろを歩いているのだった。もっとも、こちらが本物のルー坊ではあったが。 「ルーン、カグウェルの軍にいたの?」 「ちがう」  フィリエルの問いに、少年は背中で答えた。まだ声が怒っている。 「それなら、どうしてこんなところにいたの?」  ルーンは突然足を止め、くるりとふりむいた。フィリエルはルー坊ごと突っこみそうになり、あわてて顔を上げた。 「話がちがうじゃないか、フィリエル。きみこそどうしてこんなところにいるんだ。きみはハイラグリオンの王宮でぴらぴらしたものを着て、大切にされているはずだったろう。そう思ったからこそ、ぼくはユーシスにまかせる気にもなったのに——」  ルーンはくってかかるような勢いで言った。 「どうして南の最前線で、ふらふら竜の鼻先で遊んでいたりするんだ。ろくでもない子羊なんか、ばかみたいに助けたりして」 「これは子羊じゃないわ。ユニコーンの子よ。貴重なものよ」  フィリエルは言い返したが、さすがにルー坊をかかえているのは重くなり、下に降ろした。 「足をけがしたらしいのよ。折っているかもしれない」 「これがユニコーンの子?」  興味を刺激するものがあると、一瞬怒りを忘れるルーンだった。だが、ルー坊は気がたっているのか、ルーンをまったく気に入らなかった。少年が手を伸ばすと歯を見せ、脅すようにしゅっと言って、かわいげのかけらもない。  ルーンが灰色毛の子どもにさわるには、フィリエルがあごを押さえていなくてはならなかった。だが、けがを調べてみると、思ったほどひどくないことがわかった。 「少し腫れているけれど、折れてはいない。でも、添え木があったほうが早く治りそうだな」  さっきの竜が、木立を押し破ってまで彼らを追ってくる危険は、もうありそうになかった。三人はルー坊の後脚に見合った木切れを探し出し、つんだ薬草とともにあてがって、ルーンのポケットにあった包帯でしっかり縛ってやった。  ルー坊は少し不自由そうだったが、それでも大きな甲虫を捕まえ、ぱくりとたいらげた。その様子を見て、フィリエルたちも休憩していいような気がしてきた。 「竜にとって、人はちっぽけな餌だよ。効率を考えたって、草食竜のほうがずっといいにきまっている。もしもこちらから出かけていって、彼らをかまわなければね」  倒れた朽木に腰をおろしたルーンが、だれに言うともなく言った。  フィリエルとイグレインは並んで腰をおろしたが、イグレインはふいに涙ぐんだ。竜の危機がすぎさった今、彼女はあらためて思い返したようだった。 「わたくし、もう自信がありません。あなたがこんなふうに、自分の命を投げ出してばかりいるなら、わたくしに何ができると言うのです」  気丈な彼女が泣くのを見て、フィリエルは本当にすまないことをしたと思った。心をこめてもう一度あやまった。 「ごめんなさい、イグレイン。わたくしがいけなかったことは肝に銘じているの。もう、あなたに心配をかけない——星女神にかけて誓うわ。二度としないって」  イグレインが涙をぬぐうと、フィリエルは少しためらってから続けた。 「あなたがわたくしに考えていたこと、全部がまちがいではなかったけれど、あなたに最後まで話さなかったことがあるのよ。自分でもあまりに不確かで、口にはできなかったことが——」  ふいにイグレインは疑わしい表情になった。 「まさか、あなた……」  フィリエルは肩をすくめた。 「ええ。心のどこかで思っていたの。わたくしがとっても危険なことをしていたら、ルーンが来てくれるんじゃないかな……って」 「なんだよ、それ」  ルーンが驚いて口をはさんだが、フィリエルは無視して、イグレインに説明を続けた。 「賭けだったのよ。むだ死にすることになっても、そのときはしかたないと考えていたわ。だから、狂気のさただということは、よく承知していたの。でも、ルーンはいつだって、わたくしが危険な目に会っているときには遠くから駆けつけてくれたのよ。この方法しか、わたくしには残されていなかった。ルーンの居場所はまったくわからなかったんですもの」  イグレインはあきれ返った。ルーンもあきれ返った。笑顔になってフィリエルは言った。 「でも、賭けに勝ったみたい。女神様はわたくしにほほえんでくれたのよ」 「あなたって人は……」  何度か肩で息をついてから、イグレインはやっとたずねた。 「それなら、あなたが鳴り物入りでカグウェルにわたってきたのも、そういう予定のためだったんですか?」 「ううん、あれはきっとアデイルのお茶目でしょう。でも、気にならなかったの。ルーンが来てくれるなら後は何でも」  絶句していたルーンだったが、ようやく口がきけるようになり、立ち上がってフィリエルにつめよった。 「大ばかだ、きみは。ぼくは釣り上げられる魚じゃないぞ。それなのに、自分の命を危険にさらして餌にするなんて——」 「どう考えてもかまわない。あなたは来てくれたでしょう」  フィリエルも立ち上がって、彼に向かいあった。 「あなたを捕まえたもの。手段だって後からなんとでも正当化するわよ」 「ユーシスのことは?」  ルーンはたずねたが、フィリエルは落ち着きはらったものだった。 「ユーシス様をお助けすることは、これから全力でとりかかるところなの。あなたも手伝ってね」  ルーンはしげしげと少女を見返した。だが、いっこうにひるむところのないフィリエルの様子に、ある疑いをいだいてつぶやいた。 「フィリエル、ひょっとすると——きみって、実はかなりレアンドラと性格似ているんじゃないのか?」  そして、彼女にかなり強烈に頭をはたかれた。 「言うにこと欠いてなんてことを言うの。あなたには、まだあたしを怒らせることなどできないはずよ。あなたがあたしにしたこと、全部水に流したと思ったら、まったくの大まちがいですからね。そのことは、後でおいおい聞かせるから覚悟してなさい。けれども当面は、急いでユーシス様たちのご無事を確認するの。わかった?」  フィリエルがまくしたてると、ルーンもそのときばかりは叱られた犬のように見えた。 「——わかった」  涙もすっかり乾いて二人のやりとりを見ていたイグレインが、そっとつぶやいた。 「最強」  ユニコーンに乗ったユーシスたちもまた、フィリエルとイグレインの安否を気づかい、破れた塁壁のそばを探していた。そのため、双方は思ったより早く合流することができた。四頭のユニコーンは、やや興奮気味なだけで大きなけがもなく、乗っている騎士たちも同様だ。 「フィリエル、よかった、無事で。竜が塁壁を破壊するのを見たときが、わたしには一番怖かったよ」  |兜《かぶと》を脱いで乱れた赤毛のユーシスが、心からの安堵を浮かべて近寄り、フィリエルを腕に抱きしめた。だが、彼はまだ鎧を身につけていたので、ユーシスがごく軽く抱いたつもりでも、フィリエルとしては鉄板にプレスされるような気がした。 (ちょっと……まずい、かな)  ユーシスの率直な喜びかたが、いやではなかったフィリエルだが、さすがにそんな気もして、つれの二人を盗み見た。しかし、険しいまなざしをよこしたのは、どちらかというとイグレインだった。イグレインはさらに、殺人的なまなざしをロットに投げたので、彼はユーシスにならうのを断念した。 「ユーシス様、わたくしが無事なのは、ルーンが助けてくれたからなんです。ルーンがいなかったら、今ここに立っていませんでした」  フィリエルの言葉に、ユーシスはやや離れて立っている少年に気がついた。たしかにそれは、行方をくらませた博士の弟子だった。黒髪の少年の、ユーシスを見る目つきの険悪なところまで、出会った当初と少しも変わっていない。  ユーシスが最初に感じたのは、フィリエルと同じにほっとする思いだった。彼は、ルーンが死ねばいいと思ったことは一度もなかった。しかし、半ば以上は、どこかで闇に葬られてしまうだろうと思っていたのだ。  ルーンのしたこと、置かれた状況を考えれば、そうして殺されもせず、拘束もされずに姿を見せたことは驚異だった。この少年は、見かけよりずっとしたたかにできているのだ。  だが、それからユーシスは、彼の行いでロウランド家がどれほど窮地に立たされたかを、にわかに思い出した。チェバイアット家の仕掛けた冤罪《えんざい》に、もう少しでおちいっていたのだ。ユーシスの竜退治のきっかけは、その巻き返しでもあった。  となると、ルーンのふてぶてしいほどの無事には、いっそ義憤を感じたくなる。しかも、騎士たちの背後で動いて、ちゃっかりフィリエルを助けるという、おいしいところどりはおもしろくないことこの上なかった。 「君は——どうしてそこにいる」  ユーシスはこわばった口調で言った。 「何のためにカグウェルに現れた。ロウランド家の者の前に、おめおめと出てはこられない立場ではないのか」  赤毛の貴公子がこれほど態度を硬化させると思わなかったので、フィリエルは少しあわてた。 「ユーシス様、今は……」  だが、ルーンのほうはあらかじめ予想していたようだった。むっつりした声でユーシスに答えた。 「出てくる気はなかったよ。二度と会うつもりもなかった」  フィリエルはどきりとして彼を見た。ルーンは本気のようだった。 「フィリエルを安全な場所へ送りとどければ、それでいいんだ。あんたがそれを万全にできるというなら、ぼくは消えるよ」  ルーンが今にも背中を向けて歩み去りそうに見えたので、フィリエルは飛んでいってその腕を押さえた。 「消えさせないわよ。このカグウェルのどこに、万全に安全な場所があるというのよ。それを言うくらいなら、グラールにもどってからにしてよ」  ユーシスは少し間をおいてから言った。 「もしもここがグラールの国内だったら、わたしは女王陛下の配下として、君を逮捕する義務を負う人間だ。国外であっても、事情が許せばそうするべきかもしれない。そのことはわかっているな」 「わかっている」 「だが、君は、謝罪をのべに出てきたのでもないし、悔悛《かいしゅん》して慈悲を乞いにきたのでもないと言うんだな?」  ユーシスの難詰《なんきつ》を、ルーンはたじろがずに受けとめ、黙って灰色の目で見返した。ゆずるもののない顔であり、自身の行いの釈明を少しも求めていなかった。  この強情さは筋金入りだ。彼の瞳に初めて出会うわけではないので、ユーシスにもそれはよくわかっていた。さらに腹を立てて当然のはずなのだが、どこかにしぶしぶ感嘆する自分がいた。  少年はかけ値なしに、フィリエルを助けるためだけに現れたのだ。失うものがこれ以上ない者の強さなのだろうか。ユーシスは、アデイルの言っていたことを思い出さずにはいられなかった。それと同時に、自分がいろいろな意味で、この少年をどうしても悪者として排除できない——どこかでひかれる原因も、わかるような気がした。  最終的にユーシスは、重々しい態度で言った。 「わたしは、顔見知りだからといって甘い態度をとるのは嫌いだ。だが、いまだに竜退治も片づかない情況では、手が回らないのも事実だ。フィリエルを救ってくれたことは、わたしにとってもありがたいことだった。見逃すという言葉は使いたくないが、消えるときには、われわれをわずらわせないでくれとだけ言っておく」  フィリエルには、それが彼の妥協なのだとわかり、思わず胸をなでおろした。一の騎士が判断を下したのを受けて、ロットとガーラントが、ややものめずらしげな態度でルーンに近づいてきた。  ガーラントは、ユーシスの半分くらいはルーンにかかわっていた。ハイラグリオンの王立研究所では、ルーンの警護についたこともある。だが彼は、この少年にそれほど興味を覚えたわけではなかった。フィリエルが医師の従者に化けてルーンをたずねるので、そのことが愉快だった程度だ。だから、ルーンが公爵を暗殺する度胸と実行力を秘めていたことに、ひそかに舌をまいたものだった。 「よく生きていたものだな、メガネ少年」  ガーラントはまじまじとルーンを見て言った。 「おまえさんにチェバイアットのつてがあったとは、うかつにも見抜けなかったよ。ロウランドと渡り歩くとはたいした玉だ。ここへ現れたのも、チェバイアットの手づるなのか。レアンドラ姫が差し向けたとか?」  ルーンは無表情にガーラントを見た。 「関係ない。チェバイアットに何の役得があるんだ。レアンドラなら、軍隊づくりで夢中だろう」 「刺客《し かく》の使い道はいつだってあるさ」  ガーラントは平気な顔で言った。 「実のところは、若君を始末しろと命じられてきたんじゃないのか。竜退治の失敗をもくろんでもいいはずだ」 「もう失敗しているじゃないか」  ルーンも痛烈に返した。ガーラントはにやりとした。 「おまえが若君のお命をねらうつもりなら、それでもいいんだぞ、メガネ少年。必ず返り討ちにしてくれるからな。ユーシス殿はああおっしゃったことだが、大将の度量と部下の度量は、また別ものだってことを忘れんほうがいい」 (ガーラントって、この人、笑いながらすごめるタイプだったんだわ……)  かたわらでフィリエルは考えた。彼女の前ではいつもひょうひょうとしているだけに、礼節のある仮面をはずしてみせると、急に恐ろしくなる。  一方のクリスバード男爵は、どんな手厳しいことを言うかと思っていると、彼はわりとルーンを問いつめなかった。 「なるほど、例の騒ぎの刺客はこの少年だったのか。意外と言えば意外、納得できると言えば納得できるかな。亡き公爵とわたしでは、見解の相違もあるが——君、そのメガネは逃亡中もずっとかけていたのか?」  ルーンは変な質問だと思ったらしく、探るように男爵を見た。 「どうして」 「いや、目立ったのではないかと」  メガネに手をかけたルーンだったが、思いなおし、ぶっきらぼうに答えた。 「そんなことない。かけているほうが、人が寄ってこない」 「おお、なるほど」  ロットはうなずいた。それだけで、後はユーシスをふりむいて言った。 「どのみちわれわれは、この少年も乙女たちも引率して、急いで陣地へ引き返すしかないようだな。竜退治の方向が思わぬ具合になっているのだから」  そこへウィールドがもどってきた。彼は、他の者が無事をたしかめあっている間も、油断なく見張りをしていたらしかった。 「肉食竜は、餌をとった左前方のやぶから動いていません。こちら側の丘づたいに行けば、暗くなるころには陣地へもどれると思われます」 「四頭ともか?」  ユーシスが苦い顔で彼にたずねた。 「いっしょにいるようです」 「四頭——肉食竜が四頭? 本当に?」  フィリエルは思わず叫んでしまった。草食竜の群がただならない動きをしたはずだ。あれほど凶暴な生き物が複数で来られては、死にものぐるいになるに決まっている。 「やつらは、わたしが倒した竜まで食っているよ。そういう生き物だ。だが、数が増えたというそれだけの問題じゃない」  ユーシスはフィリエルを見て、やや陰鬱《いんうつ》に言った。 「わたしは歴代の竜騎士ではじめて、群で狩りをする肉食竜に遭遇しているらしいよ」 「群で狩りを……」  それは、だれの頭のなかにも浮かばなかったことだった。竜と騎士は一騎打ちをするものと、初めから相場が決まっていた。どんなタペストリーに描かれた場面も、どんな演劇で演じる舞台でも、竜は必ず一頭で現れ、立ち向かう個人の勇気が試されるはずなのだ。  ロットが気軽そうな口調で言った。 「なに、ユーシス・ロウランドはその前に竜を仕とめたのだから、問題はない。証人は山といることだし、このままグラールへ帰国したとしたって、だれにも文句は言えないはずだ。宮廷の課した仕事は終え、竜騎士のあかしは立てられた」  ユーシスは口もとをひき結んだ。 「そういうわけにはいかない。カグウェル王の要請は、国土から竜を一掃することだった。四頭もの肉食竜が塁の内側をうろついている状態で、どうして放《ほう》って帰れるんだ」 「大義は認めるが、すでに騎士の手に負える範囲を越えているぞ。仲間をもつ竜に槍一本で立ち向かっては、だれにも勝てるはずがない」  男爵は冷めた指摘をし、ユーシスは髪をかき上げた。 「もどって方策を考えよう。ユニコーンを得ているからには、われわれにはまだ竜退治者としての責任があるはずだ。何かやりようがあるかもしれない」 「根底から考えなおす必要があるぞ」 「では、根底から考えなおそう。こんな中途半端を勝利としてアデイルのもとへもどることは、わたしにはとてもできない」  断固としてユーシスは言い、ロットは口をつぐんだ。 (どういうことになるのだろう……)  彼らののっぴきならなさを感じて、フィリエルも身をすくめた。どうやらどちらを向いても、一度の命拾いを長くは喜んでいられない情況のようだった。      三  王の天幕のある陣地へもどり、グラールの残りの兵士と合流したユーシスとユニコーンの騎士たちは、夜更けというのに休息もとらず、そのままカグウェル王をまじえた会議に集まった。  フィリエルたちには聞くことのできない話し合いだったが、議論はおおよその見当がついた。複数の竜を退治したければ、今までの方法を捨て、兵団を組んだ作戦行動が必要になる。だが、グラールの後援を呼ぶか呼ばないかは、国際問題としてずいぶん難しいところなのだ。  左右するのは、カグウェル王の政治的立場であり、フィリエルたちにはおよびでないことだった。兵士たちの政治談義に耳をかたむけるイグレインを残して、フィリエルはこっそりルーンに会いにいった。  ガーラントはルーンに自由な行動を禁じ、張り番をおいて、ほとんど軟禁状態だった。居心地がいいはずもない。ルーンもそれを承知だったのだと思うと、フィリエルは落ち着かず、食べるものさえ胸につかえたのだ。 「食事はもう、もらった?」  フィリエルは声をかけた。ルーンは立木の間に作った囲いに一人でいたが、他の兵卒より粗略な扱いを受けているわけではなかった。そう遠くないところに、焚き火を囲んで雑談する兵士たちがいる。  見張りの兵もいるのだろうが、少なくとも目につく形ではいなかった。ルーンは何をするでもなく座っていたが、フィリエルを見上げてかすかにうなずいた。  天文台を出て以来、ルーンはいつだってこういう目に会っていると、フィリエルはふいに考えた——彼が、フィリエルのそばにいる限りは。 「ごめんね」  思わずその言葉が口をついた。今の状態だけでなく、今までにあったいろいろなことに対してそう言いたかった。 「なんで?」  ルーンはけげんそうな顔をした。 「ぼくには、ばかなことをしたと考えていい理由が山ほどあるけれど、べつにフィリエルがあやまることじゃないよ」 「それなら、言いなおすことにするわ。ありがとうにする」  ルーンの隣に腰をおろして、フィリエルはあらためて言った。 「ありがとう——来てくれて」 「ぼくが来ること、きみには初めからわかっていたくせに」  不機嫌な声でルーンは言い、目をそらせた。 「わかってなどいなかったわよ。願望だっただけ。イグレインには、自暴自棄だと言われてしまったわ。あたし、思えばけっこう死にたくなっていたみたいなのね」 「フィリエルには似あわないよ。そんなの」  つぶやくようにルーンは言った。認めてフィリエルもうなずいた。 「そうかもしれない。どうかしていたのかも。あのね、ルーン、あなたがいないとあたしは死にたくなっちゃうみたいよ」  フィリエルはそれを、ごくふつうの声で言った。ルーンを脅したいわけでもなく、なだめたいわけでもなく、ただ事実だから言おうという気分だったからだ。 「あなたがいなくなって、あたしは死にたかった。ルーンはそういうのをちっともわかっていないのよ。今だって、隙があれば、自分一人でどこかへ行ってしまおうと思っているでしょう。あたしが何を命がけでしたか、少しもわかっていないんでしょう」  ルーンはしばらく身じろぎせずにいた。二人のいる場所には焚き火の明かりがとどいたが、かなり暗く、伏せたルーンの顔はさらに影になっている。 「……ぼくは、もうきみにあやまった」  ようやくルーンは小声で言った。 「だから、あやまらないし後悔もしないよ。取り返しのつかないことをしたとは思わない。もう一度同じ情況があれば、もう一度だってあの男を殺すだろう。ぼくは、きみといっしょになんかいられる人間じゃないんだ」 「そんなことを言うのではないかと思っていたわ」  軽くため息をついて、フィリエルは手をほおにあてた。 「あたしが先にあの公爵を殺しておけば、いろいろと話が早くてすんだのにね。残念なことだけど、今はそれほど殺したい人がいないのよ。だから、自分で死にたくなっちゃうのかもしれないけれど——そうね、レアンドラのことはけっこう憎らしいから、あの人を殺せば証明になるのかしら」  ぎょっとしたルーンは顔を上げた。 「なに言ってるんだ、フィリエル。自分の言っていること、本当にわかってるのか?」  やっとルーンが顔を向けたので、フィリエルはその瞳を見てほほえんだ。 「そのうち、そういう情況がくるかもね。でも今は、レアンドラのことも海のように広い心で許せる気分なの。だってあなたは、竜からあたしを助けてくれたし。それができるのは、レアンドラに完全にとられたわけではなかったからだと思うし」  ルーンは思いきり眉をひそめた。 「どうしてガーラントの言うことなんかに耳をかすんだよ。ぼくがここにいることに、レアンドラは無関係だよ。利用して利用されたのは、あのとき一回限りだ」 「でも、レアンドラは、あなたにさそいをかけたんじゃないの?」 「ちゃんと逃げたよ——そんなこと、聞くなよ」  ルーンは憤慨した口調で言った。 「ぼくはべつに、だれもかれも暗殺してまわりたいわけではないし、グラールの権力機構がどんなことになろうと、一切知ったことじゃないんだ。レアンドラのやらせたいことに、ぼくのやりたいことなどないよ」 「その言葉が聞きたかったのよ」  フィリエルはいよいよ晴れ晴れと笑った。 「ああ、すっきりした。あたしの思っていたことが正しかったのね。あなたはちゃんと目的をもって南へ来ている——あたしのように、ちょっとおばかな考えではなくね。あたしは、あなたが見に来たものを見に来たのよ。ルーンがあたしだけのために南へ向かうものではないこと、よくわかっていたもの。でも、たまたま同じ方角に来ていたから、やっぱり気になって助けてしまったのでしょう?」  ルーンはふいに困惑した。 「フィリエル。ぼくは——」 「それでいいの」  フィリエルは彼の言葉をさえぎった。 「あたしの前に、もう一度現れてくれたから、それでもう充分なのよ。後はあたしがついていく。あたしのそばにいてくれなどとは、もう言わないわ。あたしたちはもう一人で歩けるもの。そして、あたしがあなたにくっついていくのよ。あなたに言っておきたいことはそれだけ」  彼女が一気に言ったので、ルーンはしばし、めんくらった状態になった。 「それだけって——」 「後でおいおい聞かせると言ったでしょう。それが、今言ったことよ」 「でも、フィリエル。むちゃくちゃだと思うけど」 「どこかまちがっているところ、ある?」  フィリエルは強気に聞き返した。ルーンはかなりためらってから言った。 「ぼくは、いまだに異端なんだよ」 「そうよ」 「おまけに、殺人者だ」 「そうよ」  ふいに思いついたように、フィリエルは言葉を続けた。 「そんなあなたのことを、見逃すつもりなのだから、ユーシス様も本当に度量のあるすばらしいかただわ。それなのに、どうして彼にあんなに無愛想にふるまうの? もう少し感謝をみせてもいいはずよ」 「できるわけないだろう」  信じられないように、ルーンはいくぶん声を高くした。 「どうしてそんな無神経なことが言えるんだよ、きみは」 「だってあなたがた、仲よしだったでしょう」 「どこが?」  ルーンは心底驚いて聞き返したが、フィリエルは真剣な顔を彼につきだした。 「ユーシス様が、今、とっても困った情況にいらっしゃること、あなたにもわかっているでしょう。ねえ、なんとかならない?」  ルーンはたじろいで身をひいた。 「ぼくに聞いて何になるんだ。どうかしているよ」 「でも、ルーンは、竜に関する知識を集めたはずよ。王立研究所でもそうだし、きっとここまでくる道のあいだにも調べたのでしょう。あなたってそういう人だもの。群で狩りをする肉食竜について、何か知っていることはない?」  フィリエルが言いつのると、ルーンは困ったようにまばたきをしたが、やがて言った。 「複数で狩りをする肉食竜は、きっと、めずらしくはないんだよ。赤道下の、そしてもっと南の竜しか住まない大陸なら。何千何万の肉食竜がいれば、そうなっていくにちがいないんだ。ただ、今まで、人間の目にするところにいなかっただけだ」 「人間のいる場所へは、一頭だけで来ていたというの?」 「カグウェルの地元の兵士が、『竜の道』の話をしていた」  ルーンは、われ知らず熱をこめてしゃべりはじめていた。 「竜の出現する日と、月と星の位相にはなんらかの関連性があるらしい。そして、竜のやってくる方角というのは、だいたいいつも同じなんだ。だから、嵐の来る日を予想するみたいに、このあたりの人は竜の現れる日を予想する。つまり、ある条件のととのった同じ道を通って、竜は侵入してくるんだよ。ばくぜんと南から来るわけじゃないんだ」  フィリエルは話をよく理解しようと眉をよせた。 「竜の道——竜でも道を歩くというの。逆に言えば、道以外の場所はふさがっているというわけ。森とか、大河とかで?」 「森や大河が、それほど竜をさえぎるとは思えない。砂漠でも無理だ。いつかはだれかが、気づかなければならなかったことだよ。大陸の地続きに何千何万もの竜がいるのに、どうしてこんなにわずかしか見かけないのかということを」  きょとんとしてフィリエルは言った。 「それは、竜が気候の寒いところで繁殖しないからよ。教科書にも答えが載っているわ」 「そういうことになっているね。それも、まったくの嘘でもないんだろうけど」  ルーンはやや皮肉にそう言うと、急にため息をついた。 「それ以上の考えをもつことは禁忌なんだ。だから、ぼくの言っていることは、全部異端だよ」 「ちょっと、そこでやめないでよ。それじゃ、あなたは何があると考えているの? まだ、ユーシス様の前に突然群で狩りする肉食竜が現れたわけを、うまく説明していないじゃないの」 「だれにもたしかなことは言えないよ。ただ、最近何かがおこって、竜の道が広がったんだろう。これまでは、偶然迷いこんだはぐれものしか通さなかった道を、群が大挙してやってくる。こうなったら、竜の北上はどんどん続くだろう。竜退治は、今までのようにのんきなものごとではなくなるんだ」  のんきなのはルーンの口調だった。フィリエルは大きく目を見開いた。 「それって、とってもたいへんなことじゃないの。人ごとのように言っている場合? その竜の道をもう一度狭くはできないの?」 「見つけないことには、どうにかできるかもわからないよ」  ルーンは、一瞬どうしようか迷った様子でくちびるを噛んだが、フィリエルの顔を見て、ついには言った。 「ぼくは、博士が探しに出かけたものを探しにきたんだ。さっききみに目的があると言われたけど、実際そのとおりだよ。ぼくは、博士が見たいと願っていたものを見に来た——世界の果ての壁を」  フィリエルはぼうぜんとくり返した。 「世界の果ての——壁?」 「そうだよ」  ルーンは深刻な顔で言った。 「ぼくたちの概念にある壁ではないかもしれない。目にも見えないものかもしれない。それでも竜をさえぎっている何かがあると、博士は語っていた。でも、そんなことを| 公 《おおやけ》に提唱するのは、異端以外の何ものでもない。アストレイアの聖典には、世界はなめらかな球体でできていると明記されているのだから。だから、これはユーシスには言ってはいけないことだ。彼は激怒すると思うよ」  ユーシスたちは話し合いを打ち切り、疲労の色を濃くして自分の天幕へもどってきた。人々の議論は紛糾《ふんきゅう》する一方で、簡単に収まりそうになかったのだ。  ロットが小声で文句を言った。 「王の立場もわからなくはないが、あの御仁《ご じん》は長期的な展望というものを知らないな。だから、追い落とされて変わることになるんだ」  ユーシスは同意をこめてうなったが、口に出しては別のことを言った。 「足もとの危ういところをあえて揺さぶるのは、われわれとしても避けたいところだよ。それに、グラールの兵団を召還することは、わたしも内心乗り気になれない。急進派を喜ばせるばかりだ」 「そんなことを言っていると、いつのまにか|人身《ひとみ 》|御供《ご くう》にされるぞ。話の流れをかいつまめば、われわれが壮絶な討ち死にでもすれば、ものごとはスムーズに変わり、あちこちの顔が立つという主旨だったからな」 「それも誤りではないな」  ユーシスはつぶやいた。ロットは顔をしかめて彼を見た。 「たのむから、竜騎士の勇敢さと無謀の度合をとり違えてくれるなよ。勝算のない戦いを挑むのは、無能な者だけがすることだ」 「わかっている。それでも、当面あの四頭の竜に打ちかかっていけるのは、竜騎士しかいないんだ」  今は闇につつまれた谷のほうを見やってから、ユーシスは重い口調で言った。 「たとえ後援をたのむとしても、軍が到着するには時間がかかる。それまで放っておけば、もっとやっかいなことになるだろう。あいつらは生き物だよ、ロット。これほど暖かい場所なら、たぶん繁殖もできるということを考えてみたか?」  ロットは思わず足を止めた。 「営巣して居座るってわけか」 「四頭もいれば、どれかが雄でどれかが雌だ。今までは、一頭しか見なかったから考えなくてすんだが、肉食竜が繁殖して、この国の内で増えるようになれば、被害はこんなものでは収まらなくなるんだ」  ユーシスの言葉に、ロットはうなった。 「想像したくない光景だな。そのへんにうようよいる肉食竜か……」  ユーシスは額をこすり、少し考えこんでから、顔を上げてきっぱり言った。 「まだ四頭だ。わたしたちで手が打てるはずだ。やつらを分散させる作戦を立てよう」  ガーラントは、会議のあいだも今も一言も口をはさまなかったが、護衛をかねてユーシスたちに付き添っていた。その彼のもとへ、部下の一人がすばやく近づいた。ルーンの見張りに立てた部下だった。  彼の報告を聞き、ガーラントはユーシスに向きなおって口を開いた。 「若君。フィリエル嬢が、ぜひお話ししたいことがあると言っておられるそうなのですが」  ユーシスは、少しばかり迷惑そうな顔をした。 「今日はもうずいぶん遅い。明日の朝にと伝えてくれ」 「しかし……もうここにいらっしゃるのですが」  見ると、なるほどフィリエルが立っていた。たいまつに照らされて、雑にまとめた赤金色の髪がほのかに輝く。彼女の着ている男もののシャツとズボンは、今日の奮闘であちこち破れ、お世辞にもきれいとは言えなかったが、彼女自身はここしばらくなかったほど内側から輝いて見えた。ほっそりした体に生気が満ちあふれて感じられ、ユーシスはいくぶん目を見はった。  彼女の隣には、影のようにルーンも立っていた。だが、少年のほうはあきらかに不本意そうであり、いやがって引き返そうとするところを、フィリエルが手首をつかんで離さない模様だった。彼に引っぱられて、フィリエルが小声で怒った。 「だめよ、覚悟をきめなさいよ。ルーンったら」 「絶対むだだよ。賭けてもいい」  ユーシスは眉をひそめた。 「フィリエル、あまりわずらわせないでほしいんだが」 「お時間はとらせません。でも、お願いです。聞いてください」  大きな瞳でユーシスを見上げたフィリエルは、真剣な口調で言った。 「ユーシス様。なんとしても、グラールの援軍を要請してくださらなければなりません。竜は、これからもっとたくさんやってきます。個人的な少数の竜退治では、もう、まにあわなくなるんです」 「どうしてそれが言える?」  当然ながらユーシスは聞き返した。一呼吸おいてから、フィリエルは答えた。 「ルーンがそう言っています。竜の道が広がっているのだと」 「それは——」 「そうです。異端の知識と呼べるものです」  フィリエルは言われる前に言ってしまおうと、勢いこんで言った。 「でも、それがどれほど禁じられた考え方であっても、こうしてこの場で、カグウェルの南で、竜に直接対決しなければならない者にとっては、真実に近づくことのほうが、よほど大切だと思うんです。わたくしには、ルーンの話がとてもつじつまのあうことに聞こえます。父は異端者ではあっても、根拠のないものごとは決して言わない人でした。どちらかというと、何ごとも立証しなければ気のすまない人だったからこそ、教義からはずれていったみたいです。彼らが立証したかったことを、聞いていただけませんか——その詳細を」  ユーシスはあきれたが、フィリエルがあまりに堂々とそう言うので、少々気をのまれた。 「君は、このわたしに、異端の説に耳をかたむけろと言うのか」  フィリエルは、びくともせずにうなずいた。 「ユーシス様。ユーシス様が、わたくしやルーンとこんなに深く関わりをもってくださったことは、決して偶然ではなかったはずです。ロウランド家のかたがたが、伯爵様も先代の伯爵様も、うすうすは察しながら芽をつぶさずに育ててくださったからこそ、父の研究は形を得たのだと思います。ですから、あなたに聞いていただいて、どの点が罪深いかを知ることくらい試していただいても、悪くないことのような気がします。ユーシス様ご自身だって、ルーンのために、エフェメリスをとりもどしに行ってくださったではありませんか」 「それは彼には言っていないよ」  ルーンが苦い顔をして口をはさんだ。そのとおりで、ユーシスはまったく驚いていた。 「わたしが、何をとりもどしたって?」 「博士の天文暦です」  ルーンはとうとう観念したのか、ちらとユーシスを見上げてから言った。 「ディー博士は、天体観測をするうちにこのことに気がついたんだ。南の空のある一線を越えると、星の軌道が計算上の軌道と必ずずれるようになる。博士はそこに、星の光を屈折させる見えない壁があると考えたんだ」  それまで黙って聞いていたロットが、息を吸いこんだ。 「気宇壮大と言ってはばちあたりかもしれないが、近年ここまでおもしろい話を聞いたことがない。詳細を聞こう。今すぐ聞こう」  せかされたユーシスも、ついには言った。 「では、聞かせてもらおう」  ユーシスはガーラントに命じて、厳重に周囲の人ばらいをさせ、フィリエルとルーンを天幕に招き入れた。そして、夜明け近くまでかけて、ルーンの知っている、竜と竜のくる道について耳をかたむけたのだった。  ルーンの口調はとつとつとしていたが、その不親切さからは、誇大妄想のかたりではない冷静な確信がうかがえた。ユーシスとロットは質問をかさね、最後には、少なくとも彼がまやかしを打とうとしているのではないという感触を得ていた。  応酬がとぎれた後で、ユーシスが言った。 「君の言うことに、君たちなりの証明の手だてがあることはだいたいわかった。だが、だれもその壁を見たことはないんだ。それではまだ、国家間の危機をおしてまでグラールの援軍を呼ぶ根拠にはならないよ」  ルーンは話し疲れた様子だった。たぶん、彼にとって、これほど辛抱強く他人に説明し続けたのは初めての体験だったのだろう。  メガネをはずし、レンズの部分を袖でふきながら彼は言った。 「完全に立証するまで信用できないと言われれば、そのとおりだ。ぼくも自分で見ているわけじゃない。少なくとも南の国境まで行かないことには、だれにもたしかなことはわからないよ」  木箱にほおづえをついていたロットが、ふいに言った。 「君、そのメガネはやっぱりやめたまえ。鼻のつけねに跡がつく」  ルーンは不審そうに彼を見た。 「それが何か?」 「変装は、もうちょっと他のものにしなさい」 「ぼくは変装していません」  むっとするルーンのかたわらで、フィリエルがユーシスに言った。 「だれかが壁のあるところまで行って、本当かどうかをたしかめてくればいいのでしょう。どのみちルーンはそうするつもりだったんです。だから、彼を行かせてやってください。わたくしもいっしょに行きますから」  ユーシスはフィリエルにあきれた目を向けた。 「ばかを言うんじゃない。どうして君まで行かなければならないんだ」  屈託なくフィリエルは答えた。 「だって、ルーン一人を行かせても意味がないんですもの。もしもこの人が、世界の果てにある壁を見つけて、竜の道の存在を確認したとしても、彼はどこにも出ていけないし、彼の言うことをだれも聞いてくれません。だいいち、ルーンのほうに話す意欲がないでしょう。世のため人のためにそれを立証しようなどという考えは、さらさらもたない人だもの。放っておけば、自分だけ知識に満足して終わるに決まっています」  フィリエルの見解は、ユーシスには反論できないものだった。眉間にしわをよせたルーンが黙っているところを見ると、彼にとっても同様らしい。 「けれども、このことが事実かどうか知ることは、あまりにも重要なことだと思います。もしも今後、さらに肉食竜が群でやってくるとしたら、それを止める手段がないとしたら、カグウェルは危ないのではありませんか?」  フィリエルは言葉を続け、ユーシスはうなずいた。 「まずは国が傾くだろうな。だがそれは、グラールが大軍を動かすことでも同じ作用をひきおこすかもしれない。竜退治の考え方をあらためることは、従来の外交そのものまで変えてしまう、大きな変革につながるんだ」 「竜の北上のほうが、外交がどうのと言う以上に大きな問題ではありませんか。それをくいとめられなかったら」 「それはたしかにそうだ」  ユーシスは認めたが、抑えた口調で続けた。 「だが、うかつなまねもできないんだよ。不確かな竜の襲来よりも、目先の王権を優先する者が必ずいる。そのための殺しあいを辞さない者たちもだ。君たちの言うことが真実なら、たしかに是が非でもまとまった数の軍隊が必要だが——こうなってくると、わたし自身がルーンとともに行って、南の情況を調べてくる必要があるかもしれないな」 「それでも、ユーシス様には無理です。今の状態でここを動くことはできないでしょう。手勢の一人をさくことさえ難しいはずです。ですから、わたくしが行くんです」  フィリエルはきっぱりした口調で言った。 「何かのかたちでお役に立てないかと、ずっと思っていました。たぶん、これがそうです。わたくしが南へ行って、はっきりしたことをつかんできます。そして、急いでお知らせしに帰ってきます」  ユーシスは一瞬つまったが、それでも反対した。 「君にはあまりに危険すぎる。もしも君の言うとおりなら、ここから先には、いつうようよと竜が現れてもおかしくないことになるんだぞ」  肩をすくめてフィリエルはルーンを見た。 「でも、ルーンが、わざと手出ししなければ、人間は竜の餌としてちっぽけすぎるって。そうでしょう、ルーン」  彼は横目でにらんだ。 「ふるなよ。保証なんかしてやらないよ」 「ですから、ルーンがいるから大丈夫です」  まったく無視して、フィリエルは笑顔で言った。ユーシスは黙りこんだが、ロットが代わりに、判定を下すように言った。 「これよりよい方法も思いつかないなら、認めてさしあげたらどうだ。このお嬢さんが言い出したら後に引かない人だってことは、だれにも|一目瞭然《いちもくりょうぜん》だよ。だいたい、われわれのそばにいれば危険が少ないということにもならないのだから」 「しかし——」  ユーシスは、無表情な黒髪の少年に目をやった。彼と自分とでは比較にならないものながら、やっぱりこしゃくな気がしてならなかった。  フィリエルは、もう決まってしまったこととして、さっぱりした顔で言った。 「わたくし、ロウランドの奥方様とアデイルに手紙を書きます。グラールへ使者を出してくださいますね?」  鳥の声が聞こえ、天幕の外はもう白んでいた。南国の日射しがふりそそぐのもまもなくだろう。話を終わらせ、そそくさと席をはらったフィリエルだったが、ルーンに続いて天幕を出ようとして、思いなおしたようにふりかえった。 「ユーシス様——あと一つだけ」  ユーシスはふいを突かれ、疲労でぼんやりした頭を再び集中させようと努めた。 「なんだい」 「あのバラッドのことなんです。わたくしも確認したわけではありませんけれど、あの作者、アデイルですよ」 「アデイル?」  ぴんとこないまま、ユーシスは聞き返した。もちろんユーシスは、アデイルも詩の創作くらい、たしなみで習っているとは思っていたが、それ以上のことは何も知らなかったのだ。 「どうしてアデイルなんだ」 「あかがね色の髪の乙女と、バラッドには歌われていますけれど、あれは、本当はわたくしではないんです。アデイルの願望です。今度、おきかえてみてくださいます? アデイルの願望は、身を捨てて南の国へ来て、ユーシス様をお助けしたかったんですよ」 「いきなり言われても——」  ユーシスの頭がよく回らなかった。だいたい今の時点では、バラッドそのものがよく思い出せなかった。彼の場合、そういうものは、聞くそばから耳を抜けていってしまうのだ。  フィリエルは、琥珀色の瞳にいたずらっぽい光を浮かべてまばたき、くすっと笑った。 「もっともアデイルは、死ぬまで作者だなどと認めないに違いありません。ユーシス様にこんなことを言ったと彼女に知れたら、わたくしもたぶん絶交ものでしょう。ですから、今のはないしょですよ。わがままをかなえてくださったお礼なんです」  そう言ってフィリエルは、踊るようなしぐさで天幕のとばりを抜け、外へ出ていった。返答をしそびれたユーシスは、しばし動けずにいたが、ひと眠りしてからよく考えようと結論した。  天幕を元気に飛び出したフィリエルだったが、ルーンは待っていてくれなかったようで、もう姿が見えなかった。だが、そこには、彼の代わりに腕組みしながら待ちかまえている人物がいた。イグレインだった。 「あの……」  フィリエルが声をかけようとして口ごもるほどに、彼女は腹を立てている様子だった。考えてみれば当然かもしれなかったが。 「ひとことも相談なしに、ずいぶんものごとを進めているようですね。フィリエル」  氷のように冷たく言われて、フィリエルは小さくなった。 「ごめんなさい。こんなに急に話がころがるとは思わなくて……実は」 「あなたにとって、あのルーンという男の子がどういう存在かは聞きたくありません。たとえどういう存在であろうとも、わたくしは絶対に認めないからです」  フィリエルの言葉をさえぎり、イグレインは激しい調子で言った。 「絶対に信用しないし、絶対に好きになれないし、絶対にあなたにふさわしいと思いません。彼の来歴のどこにそれをくつがえせるものがあります? 女学校にまぎれこんだことからして、卑怯《ひきょう》もいいところだったではありませんか」 「イグレイン、あのね……」  フィリエルは彼女をなだめようとしたが、聞いてもらえなかった。 「その後の行いだって、後ろ暗い陰険なことばかり。すでに刺客として働いた人物ではありませんか。異端思想の持ち主で、それをあらためようともしないし。どうしてあんな人に平気で接していられるんです。今だって、どんな陰謀に加担しているかわかったものではない、あんな汚れた人間、そばにおくのがまちがっています」  フィリエルも徹夜明けではあり、気が立ちやすかった。そこまで言われると、ついついかっとした。 「やめてちょうだい。あなたが聞く耳もたないなら、あたしだってもたないのよ。彼の悪口ならどこかよそで言ってきて。あたしはルーンと二人で南へ行くんだから。これは、だれにも止められない、ユーシス様でさえ認めてくださったことよ」  さすがにイグレインは口をつぐんだ。そして、かなり間をおいてから低くたずねた。 「……本当なんですね」  フィリエルも、その間に少し冷静さをとりもどした。 「本当よ。今まであなたがいっしょに来てくれたことには、どんなに感謝してもしたりないくらい。こんなことを言う自分を、われながら身勝手だと思うし、あなたに嫌われるのはずいぶんつらいことだけど、それでも、ルーンの行くところに行きたいの」 「そこまで言うなら——しかたありませんね」  深呼吸した後にイグレインは言った。その様子は、本来の彼女に立ちもどったように見えた。 「では、彼を殺しましょう」 「ちょっと待ってよ!」  イグレインが背中を向けたので、フィリエルは肝を冷やしてすがりついた。平静な声で告げられると、これはまったく冗談ごとにはならなかった。 「ばかなことはやめて。お願いよ」  しがみついてひきずられるフィリエルを、ちらりとふりかえり、イグレインはたずねた。 「わたくしに彼を殺されたくありませんか?」 「あ——当たり前でしょう!」  イグレインは赤茶の眉を上げると、にこりともしないで言った。 「それなら、わたくしをこの先までつれていくことですね。あなたにあの男と二人旅をさせるなんて、わたくしには絶対にできないことですから。そして、もしも彼が変なまねをするようなら、すぐにその場で成敗してくれます」      四  フィリエルとルーンとイグレインの三人は、旅の荷物を急ぎととのえたが、ユーシスたちとて悠長に見送れる状態ではなかった。肉食竜に追われ、草食竜の群がさらに移動したとの報告が早くも入っていた。  送り出すときの一言はかけたいと思いながらも、ユーシスが天幕のわきで地図を広げ、ガーラントとせわしく攻守のポイントを検討しているときだった。目の隅にだれかが立ったのに気づいた。  伝言を伝えるカグウェルの兵卒だと思い、顔も上げずにいると、いつまでも立っている。いぶかしく思ってようやく見やると、立っているのはルーンだった。  あいかわらずの仏頂面だが、いくぶん落ち着かなげにしている。その様子は、チェスをしようと言いにきて、言い出せずにいた彼を思い出させた。 「どうした。何か無心したいものがあるのか」  ユーシスはたずねた。同じに無愛想でも、フィリエルが隣にいないと、なんとなく印象がちがうから不思議だ——半分以上は、ユーシスの気のもちようなのかもしれないが。  黒髪の少年は頭をふった。 「逆だよ。あげたいものがある」  近づいてくると、ルーンはポケットに手を入れ、黒くて丸いものを取り出して地図の上に置いた。手のひらに握りこめるくらいの大きさで、一カ所ろうそくの芯のようなものが出ている。 「なんだ、これは」 「バクダン」 「バクダン?」 「火薬だよ」 「火薬?」  ルーンはどう言ったものかと考えるように、しばらく間をおいた。 「火をつけると、すごい勢いで炸裂する。音もすごい。火薬は、木炭と硝石とイオウを混ぜ合わせて作るんだ。配合が難しいけれど、材料はそれほどめずらしいものじゃない。ケイロンあたりでも手に入るよ」  ユーシスには、まだよくわからなかった。 「それを、どうしてわたしに?」 「竜退治の人手がたりないから」  濃い灰色の瞳に真剣な色を浮かべて、ルーンは言った。 「本当は、よく研究を重ねれば、一発で竜を倒すような火薬の武器が作れるのだと思う。このバクダンはまだ、大きな音と火花で竜を脅すのがせきの山だけど、それでも肉食竜だって怖がるはずだ」  彼はさらにポケットをさぐって、紙切れをとりだした。 「ぼくも手持ちが少ないから、一個しかあげられないけれど……配合の分量と手順をここに書いておいた」  ユーシスはしばらく黙ってその紙をながめていた。それから、目を上げて言った。 「君の申し出は厚意だとわかっているが……これも異端の知識だろう」 「火薬は、グラールの一部ではちゃんと許可されているよ——花火にするとか、採掘とかでは。武器にするのはわからないけれど」 「それにしたって、国外輸出を禁じてあるものには違いないだろう」  ユーシスがたたみかけると、ルーンは怒った様子だった。口調を鋭くして言った。 「それが一番必要な場所で使えない知識って、いったいなんなんだ。人間に知恵がある意味がないじゃないか。グラールの権力者は、そういった宝物を腹の下に入れてあたためていたいんだろうけど、もしも竜をさえぎる壁が機能しなくなって、|有象無象《う ぞうむ ぞう》の竜が押し寄せてくるようになったら、お高くとまった文化の上に居座っていられる者などいないんだ。ぼくに言わせれば、この竜たちを目の当たりにして、はるか後方のグラールのいいつけを守るやつなんて、無能としか考えられないくらいおめでたいよ」  ユーシスはそれまで、しぶしぶ話すルーンしか見たことがなかったので、彼のまくしたてかたは、いささか意外だった。そのため、暴言にもかかわらず目をまるくしていると、ルーンは気がついたのか、恥じ入ったように調子を落とした。 「——あんたがむだ死にしたいなら、それでもいいよ。でも、フィリエルがあんなふうに言うし」 「わかった。この件はよく考えることにして、受けとっておこう」  ユーシスは、怒る気が失せてうなずいた。今のルーンは、もてる知識を別として、意地っぱりでも年下の年齢相応に見えた。異端の怪物にフィリエルをつれさられるという感覚は、まだユーシスの心に巣くっていたものの、まあ、それがすべてというわけでもないのだろう。 「異端思想をあまりうんぬんすると、わたしももう、片棒をかつぎかけたことになるかもしれないからな。世の中が変わらなかったとき、これがどこへ収まるかは心もとないが、あるいは、世の中が変わるのかもしれない」  黒色の火薬玉を手にのせて、ユーシスはごく軽い口調で言った。 「むだ死にはしないよ。君こそ、むだには死なずに、早くフィリエルをつれもどしてくれ」  ほんのかすかに、ルーンは口もとをゆるませたようだった。 「人はたぶん、竜よりも強い生き物だよ。そして、どこが強いかというと、道具を使えるからだよ。道具を使う頭をもっていることを、ぼくたちは最大限に生かさなくてはいけないんだ」  ルー坊のねんざはかなりよくなっていたので、フィリエルは添え木をとってやった。ユニコーンの子を残していくわけにはいかなかった。どのみち、ついてきてしまうだろう。  ルーンがもどってきたのを見て、フィリエルは声をかけた。 「やっぱり、あなたたちは仲がよかったじゃない」  ルーンはそれには答えなかった。 「準備ができたのなら、もう行こう」 「いつでも行けるわ」  フィリエルは、少しためらってから言った。 「ルーン、一つ聞いておきたいことがあるんだけど——」  ルーンはどこか警戒したようにフィリエルを見た。そのときだった。勢いよく何かにわきから突かれて、彼は思わず声をもらした。 「いて」  フィリエルもびっくりしたが、ユニコーンの子がルーンに頭突きをくらわせたのだった。角がないからいいようなものの、ルーンがよろめくくらいの威力はあった。 「ルー坊、やめなさい」  フィリエルが叱《しか》っても、彼は黙って二度目の突撃をくり返した。ピイピイと鳴かないときは、どうやら怒っているらしい。ルーンが数歩後ずさると、灰色毛の子どもはようやく攻撃しなくなった。 「こいつ、ぼくのことが嫌いらしいね」  フィリエルに近づいたことが気に入らなかったらしいとさとって、ルーンは言った。 「こんなこと、今までしなかったのに。だめな子ね、手当してもらった恩も忘れて」  フィリエルが困惑しているところへ、イグレインがやってきた。彼女もルー坊と同じに、フィリエルとルーンが二人でいるのは気に入らなかった。割って入って、尖った声で言った。 「何をしているんです。出発するなら早くしましょう」  結局、フィリエルの聞きたいことは聞けずじまいだった。そしてフィリエルは、じゃまが入ったことにルーンがほっとしているような気がして、なんとなく不安にかられた。  ルーンは、フィリエルが同行して壁を見に行くことを承知したが、敵意むきだしのイグレインがついていくことにも、あまり文句を言わなかったのだ。フィリエルは内心、こんなはずではなかったと思ったものだが、ルーンのほうは、それほど両者に差を感じていないように見えた。 (なんだか、うれしくないみたいなのよね……)  念願かなって再会した、夢中のうれしさが冷めてくると、ルーンの態度のどこかにへだたりがあることに、いやでも気づかざるをえなかった。再会してからのルーンは、以前、フィリエルに何心なくキスを求めたことなど、一度もなかったかのようにふるまっている。彼女がそばにいても、触《ふ》れようとさえしないのだ。二人の居る場所が、それほど違ってしまったとでも言うのだろうか。 (まだ、ルーンの気持ちを言ってもらっていないのに……)  心をこめた告白がなしくずしになる予感がして、フィリエルは妙に弱気になった。彼女はついていくと宣言したが、ルーンはまだ、ついてきてほしいとは言っていないのだった。  ともあれ、旅は始まった。馬を進めるわけにはいかないので徒歩の旅だ。竜がやってきた道筋には歴然と爪跡が残っているので、行き先を見失うことはまずなかった。方角的には南東になる。  竜が、一番通りやすい開けた場所を通ってくるのはたしかだった。草食竜の群は、多少の木立は押し倒して食ってしまうが、木々の密生した丘などは迂回する。曲がりくねった川沿いの平地を、ほぼ一つのルートとしているようだった。幅の狭い草原が続き、竜が食いちらかしているせいで、見通しがいい。  だが、あまり湿地に近づくと、たちの悪いものがたくさんいて、喜ぶのはルー坊ばかりであり、歩けるときには木のある高い場所を歩いたほうがよさそうだった。  彼らの目の前に広がる風景からは、人の痕跡が消えつつあった。太陽の強い光を吸いこんで繁茂する植物が、地表を貪欲《どんよく》に覆い尽くそうとして伸びていく。草食竜がどれほど食おうと、それらの雑多な草木がたちまち生命をよみがえらすことは、目にしてよくわかるものだった。 「暑いわね」  フィリエルがこぼした。もう、顔のそばかすがどうのこうのと言ってはいられなかったが、できるだけ日に焼けたくはなく、頭から布を被っている。 「赤道直下なら、もっと日が強いと思うよ」  ルーンがつぶやいた。 「まさか、そこまで行く気ではないでしょうね」 「ちがうよ。壁はもっと手前にある」  ルーンは道中、必要以上に口をきかなかったが、このときは言った。 「ぼくたちの居場所というのは、北のほんの一部なんだ。大陸中央は砂漠のせいで住めないし、この世界に、人間のいるところはあまりないんだ」  イグレインがそっけない口調で言った。 「大陸東にも国はあるし、これだけの数の国家が作れれば、充分すぎるほど広いと思いますけど」 「そういえば、トルバート国はどうなったかしら。東の帝国が軍を進めていたのは」  思いついてフィリエルはつぶやいた。 「そう簡単に落とせるものではないでしょう。バックにグラールがついていますし」  イグレインは得意な話題にやや活気づいた。 「あのあたりは周辺が砂漠ですから、ブリギオンの軍隊だって、長い補給線をつなぐのは至難の技です。大きな軍勢は、大規模な補給もなしに動けるものではないのですから。トルバートにまで手を伸ばしたことが、まず無謀だと思いますよ。その難しさがあるから、中央砂漠は長いあいだ、わずかな隊商しか行き来できなかったんですから」 「アデイルが、トルバートへ行くかもしれないって言っていたの。ヴィンセントもよ」  フィリエルが気になるわけを教えると、イグレインがにやりとした。 「あのヴィンセントなら、|千載《せんざい》|一遇《いちぐう》と思っていることでしょうね」  イグレインがルーンにけんか腰の態度であることと、フィリエルの表に出さない|憂鬱《ゆううつ》を抜きにすれば、彼らの旅はなかなかはかどっていると言えた。草食竜を一度見かけたが、ほんの数頭で、こともなく避けて通ることができた。  日が暮れて焚き火をおこし、節約した食事をすませると、ルーンは黙って二人のそばを離れていった。そのとき手にしていたものをちらりと見て、フィリエルはひそかに驚いた。 (アストロラーベ……天文台にあった)  それは腕にのせる小型の天体観測器で、天文台のものよりさらに小さいようだったが、それでも、ポケットにしまうには大きかった。服の内側に隠していたのかもしれない。もともと、ルーンがいつまでも大きすぎる服を好むのは、なんでもかんでも持ち歩く習性があるからなのだ。 (でも、あんなものを、どこで手に入れたんだろう……)  イグレインも不審に感じたらしく、ルーンを見送った後で小声で言った。 「なんです、あの人。後をつけてみたほうがいいかしら」 「いいのよ、何しに行ったかはわかっているの。星を観測するつもりなのよ。たぶん目的地を割り出すんでしょう」  フィリエルが急いで言うと、イグレインは上げかけた腰を下ろした。 「それなら、ここにいることにします。あなたも行く気になってはいけませんよ」 「はいはい」  フィリエルは、ため息をつきそうになるのをこらえた。イグレインはそんな彼女をじっと見つめてから、おもむろに言った。 「フィリエル、彼のことはもうあきらめなさい。あれは異界の人間です。あなたとは相容れません」  フィリエルは眉をよせた。 「どうしてそんなふうに言うの。わたくしは、ルーンと八つのときからいっしょに育っているのよ」 「どう育とうとも、すでに道が分かれています。昔にもどることはできないんです」 「道など一つにしてみせるわ」  フィリエルの口調はきっぱりしていた。 「星々の間にある異界じゃあるまいし、ルーンは生きてこの世を歩く人間よ。どうしていっしょにいられないわけがあって?」  だが、イグレインのほうも妙に確信をもっていた。灰青の瞳に落ち着いた色を浮かべて言った。 「彼のほうも、それを望むと思いますか? 異界へ行ってしまう人間というのは、もっている匂いでわかります。物語にもいくつかあるでしょう。どんなに仲よく暮らしていても、最後は自分の世界へ去ってしまう、異界から来た者たちの話が。あのたぐいですよ」 「そんなの、ちっともわからないわ」  フィリエルがつっぱねると、イグレインは探るようにその顔を見た。 「わたくしが、化けの皮をはいでみましょうか。あなたが最後まで幻影を見ているよりも、早めに切りあげたほうが身のためですし」 「よけいなことはしないで。本気で怒るわよ、イグレイン」  フィリエルが声を鋭くすると、イグレインは口をつぐんだ。  翌日も暑かった。暑いと水筒の水がすぐになくなってしまうし、汗をかくので体が気持ち悪い。ルーンはそこまで切実に思わない様子だったが、少女二人は限界だと言いはって、水辺にくだることにした。  水浴びに適当な場所を見つけるには、よく注意することが必要だったが、こういうときにはルー坊がなかなか役に立った。つれて歩けば、危険物を先にたいらげてくれたのだ。  フィリエルとイグレインは、今までにも旅の途中に何度も小川で体を洗っており、やり方は手慣れていた。まず、フィリエルがルー坊づれで水に入り、イグレインは服をもって、近づく者がないように岸で見張っている。それから交替して、今度はフィリエルがイグレインの服をもって見張るのだった。  ルーンはその間、追い払われた場所から動かなかったように見えた。二人がすっかり服を身につけて登っていくと、同じところに座っていたが、それから、自分だけ浴びないのもばからしいと思ったようで、少女たちと入れ替わりに降りていった。  ルーンのために見張りが必要だとは、だれも考えなかったし、ルーンとてたのむつもりはなかった。ところが、彼が水を浴び終えて、脱いだ服の場所まで上がってくると、服のそばにはイグレインが立っていた。 「…………」  ルーンはぬれた前髪の陰から、不愉快そうな目でにらんだが、イグレインは目をそらしもせずに立っている。堂々としたものだ。ルーンもあれこれさわぎはせず、ぷいと顔をそむけると、そこにだれもいないような態度で衣類をつけはじめた。  やや間をおいて、イグレインが口を開いた。 「その胸のしるし、蛇の杖ですね」  それは、イグレインが初めてルーンに直接言った言葉だった。 「きみには関係ない」  それが、ルーンの初めてイグレインに直接返した言葉だった。 「無断でしたが、あなたの服の持ち物を調べさせてもらいました」  ルーンは、上着をはおる手を一瞬止めたが、そのまま黙々と続けた。 「あなたの持っているものは、通常に買い求められると思えないものが多すぎます。高価という以上のものが。あなた一人でそれらをそろえることは、短期間ではできないはずです——逃亡の身であれば、なおさらに。それがチェバイアットでないなら、あなたのバックにいるものは何なのです」  ルーンは、まだイグレインを見ようとしなかった。 「知ってどうする」 「フィリエルをだまそうというなら、わたくしが許しません」 「きみに言われることじゃない」  ルーンは刺すような怒りの目を向けた。そのルーンの前で、イグレインは腰の剣をすらりと引き抜き、彼ののどもとに突きつけた。姿勢のととのった、優雅と呼べるほどの身ごなしだった。 「いいえ、わたくしの言うことです。あなたの返答次第では、あなたを始末する許可がおりています」  ルーンは剣の切っ先を見ずに、イグレインをにらみつけたままだった。 「つまりは、きみも刺客じゃないか」 「時と場合によっては」  フィリエルはイグレインがいないので、水筒をかかえたまま坂を引き返してきたが、彼女がルーンに白刃を向けているのに気づき、仰天して駆け寄った。 「やめて。何のまねなの、イグレイン」 「わたくしにさわらないで、フィリエル。彼の首が切れます」  イグレインはぴしりと言い、フィリエルはすんでのところで思いとどまった。彼女の剣の切っ先は、すでにルーンの皮膚にふれているようだった。 「ひどいわ、こんなことをするなんて。絶交するわよ」 「それでも、これが、ロウランドの奥方様から受命したことなのです。あなたについていき、あなたを惑わせるものは、思いきって排除しなさいと」  イグレインの口調は冷静だった。フィリエルには信じられない思いだった。 「どうしてそこまで——しなくてはならないの」 「王宮の女性ならわかっていることです。あなたは女王家の娘であり、二代続けて同じかたちで失うわけにはいかないからです」  フィリエルが言葉をなくすと、イグレインはルーンに声をかけた。 「さあ、フィリエルの前でお言いなさい。自分がどこの手の者かを。隠し通そうとしてもむだです」  ルーンがそれでも黙っていると、イグレインは切っ先をねじあげるようにした。 「このまま死にたい?」  トーラスの生徒は全般にこういうことができるのだと、フィリエルは震えながら思い知った。たまたまイグレインが味方の側にいたから、生徒会とは違うものだと思っていたにすぎないのだ。 「ルーン、何でもいいから言って!」  フィリエルが叫ぶと、ルーンは目だけ動かして彼女を見た。そしてその表情を認めると、見たくないように目をつぶった。 「……チェバイアットじゃない」 「それなら何だというんです。蛇の杖?」  イグレインの問いは残酷だった。フィリエルは思わず両手を握りしめ、彼女にくってかかった。 「あんまりだわ。彼らは、ルーンを捕まえてむりやりひどい目に会わせたのよ。ルーンが好きで関わったわけじゃないのに」 「蛇の杖だよ」  あきらめたようにルーンが言った。 「蛇の杖——ヘルメス党が、チェバイアットからぼくを逃したんだ」  フィリエルはあいた口がふさがらなかった。自分の耳を疑って、ぼうぜんとルーンを見つめた。 「嘘よ……だって、どうして……」 「ぼくも、それまで知らなかった。リイズ公爵の率いるヘルメス党は、邪道な末端にすぎなかったんだよ。公爵自身、そのことを知らされていなかったけれども——あの男がまつられていたのは、資金源としてのみだった」  剣はまだのどもとにあり、ルーンは話しにくそうに続けた。 「ヘルメス党の本流は、もっと深いところにある。公爵はただの隠れみので、本当のヘルメス・トリスメギストスは、グラール国内にとどまらない別の場所にいるんだ」  イグレインが顔をしかめた。 「蛇の杖なら、名にしおう暗黒の地下組織ではないですか。チェバイアットよりもさらにたちが悪い。最悪ですね」  フィリエルは鋭い声で言った。 「彼は真実を言ったのよ。剣をはずして、イグレイン。もっとルーンの話が聞きたいの」  イグレインはいくらかためらったが、言葉どおりに剣をおろした。フィリエルは前に進み出て、少年の首に血がにじんでいるのを見てとったが、ルーンが最初にしたことは、傷に手をやることではなく、メガネをかけることだった。  フィリエルは静かにたずねた。 「あたしに黙っているつもりだった?」 「いや」  ルーンは睫毛を伏せた。 「どこから話していいか——わからなかったんだ」  少しためらってから、フィリエルは言葉をついだ。 「あなたが博士のことを言っていたのは、何かがわかったからだったの?」 「……うん」  ルーンは、その問いを覚悟していたように見えた。 「彼らは、ディー博士が南の国へ来るのを待ちかねていたんだよ」 「彼らって、ヘルメス党?」 「そう——真の学究的なヘルメス・トリスメギストスの組織」 「つまり、博士もヘルメス党の一員だったということなのね」  ルーンはうなずき、フィリエルは息を吸いこんだ。 「あなたは博士の消息を知ったんじゃないかって、そんな気がしていたのよ。聞くのが怖かったけど——」  声をはげましてフィリエルはたずねた。 「言ってよ、ルーン。ヘルメス党で博士に会えたんじゃないの?」  ルーンはフィリエルを見ようとせず、すぐには口も開かなかった。それからのろのろと言った。 「博士は南へ来ていなかった。でもフィリエル、まだだれも会っていないだけだ。彼らも博士を捜索している。いつかきっと見つかるよ……」 「博士はいないのね……」  思わずため息が出た。これほどの月日がたったのに、ディー博士が旅の途中にいると考えるのは無理だった。肩が何倍にも重くなったような気がしたが、フィリエルはしいてそれをふり払った。 「しかたないわ、期待したわけではなかったのよ。ちょっとだけよ」  ルーンはフィリエルの表情をうかがうように、灰色の瞳を上げた。 「だから、ぼくは、博士の代わりに壁を見に来たんだ。そして、きみに会って、きみにも壁を見せたいと思った。博士とエディリーンが北の塔で見たがっていたものを、きみにも見せてあげたい」  フィリエルはうなずいた。 「わかっているわ。あたしも同じ気持ちだもの」 「これがぼくの、きみにしてあげられる最後のことだと思うから」 「え?」  フィリエルのしぐさが一瞬凍りついた。ルーンのまなざしは暗かったが、口調にためらいはなかった。 「きみに壁を見せてあげたら、その後、ぼくはきみの前に永久に現れない。イグレインがやきもきする必要などなかったんだ。最初からそのつもりだったんだから。きみを、これ以上闇のなかへつれていくことはできない。でも、ぼくはもう、そこから出られないんだ」      五 「前に、メリング先生が言っていたことがある。研究にたずさわる人間は、どうして生まれるんだろうって。星女神がそれを禁じているとわかっていても、知らずにはいられない人間がいるんだ」  ルーンは少し間をおき、まだぬれている髪をかきあげた。 「ディー博士のエフェメリスは、画期的に精緻《せいち 》なものだった。見えない惑星の影響力まで計算値に入れたものだからだ。星の軌道はそれだけで数値に差がつくんだよ。そのことを、ヘルメス党の人はたちどころに理解した。博士を賞讃してくれた。異端だということはもちろん知っていた」 「ルーンは賞讃がほしかったの?」  フィリエルはたずねた。しかし、言いながらも、酷な言葉だと思っていた。これまでルーンは、だれからも認められたことがなかった。彼に才能があることは、ふれた人間ならわかるものだが、だれもがよってたかって、彼を自分たちのわくに収めようとしただけで、ルーンの望みを聞く耳はもたなかったのだ。  ルーンは頭をふった。 「そうじゃないと思う。賞讃が欲しかったら、とる道はもっと他にたくさんあるはずだよ。だれからもほめられない——むしろ抹殺される方向だとわかっていても、そうせずにいられない人間の集まりが、地下に隠れたヘルメスだったんだ」  フィリエルを見て、ルーンは苦しげに言った。 「二度と明るい場所に出ていけないことはわかっている。でも、ぼくは他に何ももっていない。まだまだ知らないことがたくさんあるのに、世界は謎に満ちているのに、知るすべもなく年をとるのはいやなんだ」 「あたしだって、世界の謎が知りたいわ。自分一人のことのように言うのはやめてよ」  憤然とフィリエルが言うと、ルーンは口ごもった。 「だけど、フィリエル……きみは数学が苦手じゃないか」 「数学がなんだっていうのよ」 「たとえの一つだよ。きみには向いていない。生まれつきそうなんだ」 「あたしは博士の娘でしょう。権利あるわよ。数学がうまくならなかったのは、あなたたちのせいじゃないの」 「それなら、イグレインが心配してそこにいるのは何のためなんだ」  つめよるフィリエルに、ルーンはふいに切り返した。 「彼女がいるってことが、もう違いになっていることがわからないのか。乱暴だし頭にくる護衛だけど、言っていることもやっていることも正しいよ。フィリエルのためを思っていることはたしかだ」  イグレインはそれを聞いて、少々胸をはった。 「愛がありますから」 「ぼくだって——いや、そんなことはどうでもいいんだ」  再び頭をふって、ルーンはたのむような顔でフィリエルを見つめた。 「博士がここにいてくれたら、少しはことが違っていたかもしれない。あるいは、ぼくがもっと年をとっていて、きみをさらっていくだけの力や何かがあったなら。けれども博士はいないし、くやしいけれど、ぼくはこんな年齢でしかない。まだ一人ではできることがなく、師匠を探すしかないんだよ」  フィリエルが黙っていると、かたわらでイグレインが剣を収める音が聞こえた。 「わりとものがわかっているではないですか。異端の賛美は聞かなかったこととして。わたくしも、むやみに人を斬りたくはありません。地下組織|撲滅《ぼくめつ》までは命じられていませんし」  フィリエルはゆっくり呼吸した。それから低い声で告げた。 「あたしよりも研究をとると、結局、そう言っているのね。ルー・ルツキン」 「許せなくてもいいよ。きみに許してもらえるとは思っていない」  顔をそむけてルーンは言った。 「きみの前に、もう一度出てきたのがまちがいだった。それでも、もう少しだけ、きみの顔を見ていたいと思わずにはいられなかったんだ」  それからは、極端に無口な道行きとなった。フィリエルは特に、口がきけなくなったように黙りっぱなしだった。イグレインとルーンにも会話が生まれるはずもない。だれもが黙々と目的地をめざしたが、ただ、イグレインの機嫌だけは前よりもよくなっているかもしれなかった。  フィリエルは少し泣いたが、旅には体力がいるので、そうそう泣き暮らすこともできなかった。ハイラグリオンからルーンが消え去ったときのように、寝台にもぐっているわけにはいかないのだ。  それに、あのときに比べれば、今度のほうが拒絶はずっと痛烈で決定的だった。以前は、自分から追いかけていけばいいと考えなおすことができた。今は、追いかけてきたその面前で、ルーンにぴしゃりとことわられたのだ。もう、みじめに泣く資格もないような気がする。 (あたしって、二度もルーンにふられたんだわ……)  どうしたらいいかわからなかったが、この上機会があると思うことは、さすがにできなかった。自分とルーンを引き離す世界全体がまちがっていると、言い切ることのできたフィリエルだったが、どうやら、まちがっていたのはフィリエルだった。世界のなかには、ルーンの意志というものがあったのだ。  そしてそれは、フィリエルが世界で一番弱いものでもあった。そばにいることをルーンが望まないのなら、もうフィリエルには手も足も出なかった。 (これは、あたしのせいでもあるんだわ……)  思い返せば、フィリエルがエディリーンの首飾りを得て、王宮へ行く決心をしたとき、二人の道はもう分かれていたのだ。賢いルーンはそれを予告していたというのに、フィリエルに聞く耳がなかったのだ。うかつだったのはフィリエルであって、ルーンのせいではなかった。  もう二度と王宮へはもどらないと、フィリエルは本気で考えていた。けれども、レイディ・マルゴットもアデイルもマリエもイグレインも、みんなそう考えてはいなかったのだということに、あらためて気づいてしまう。結局今となっては、フィリエルの居場所は、もう王宮にしか用意されないのかもしれなかった。 (やりなおしはきかない。昔へはもどらない……)  今は、セラフィールドがあまりにも遠かった。ルーンとともにエディリーンのお墓へいく日は、永久に来ないのだということが、事実として徐々にフィリエルの身にしみてきた。それを嘘つきと言えるだけ、強くはフィリエルもなれなかった。ルーンにふりかかったものが、自分の何倍も苛酷《か こく》だったことは、痛いほどにわかる。おそらく、彼が口にしなかったことはまだたくさんあるのだろう。 (だめ、か……)  ルーンが自分の意志でいたい場所を見つけたことを、喜ぶべきだと思ったが、全身から力が抜けたような気分にしかならなかった。今のフィリエルは、歩いているだけでやっとだった。  三人だけの旅を続けて四日めのことだった。ルーンがふいに立ち止まった。森がとぎれて、彼らは平地へ出るところだった。目前の風景はやや開けて、なだらかな草原になり、その向こうに再び黒々と茂った森が続いている。  それは、今まで通り過ぎてきたものとたいして変わらない、めぼしいもののない風景だった。草原の上空には翼の大きな鳥が舞い、草食竜の姿が遠くの木立にほの見えたが、それとてめずらしくはなかった。 「どうしたんです」  先頭の彼が足を止めたので、次に行くイグレインがたずねた。休憩はとったばかりのはずだった。 「今、鳥が曲がった」  空を指さしてルーンは言った。イグレインもしばし滑空する鳥をながめて、ルーンに目をもどした。 「それで?」 「あそこが壁だ。たぶんそうだ」  ルーンは興奮した声で言い、小走りに駆け出していった。イグレインは驚いた顔をフィリエルと見合わせた。 「だって、何もありませんよ」  少女二人は体力を温存して駆け出さなかった。やや足を速めながらよく目をこらしてみたが、やはり、風景は何も変わらなく見えた。遠景がかすむわけでもなく、その辺の植物に違いがあるわけでもない。  ルーンは、大きくはない草原の中ほどで、背中を見せて立ちつくしていた。当てが外れ、途方にくれているように見えた。けれども、フィリエルたちが近づくと、ふりむいて言った。 「ここに立って、左右を見てごらん。そうすればわかるから」  二人はルーンに並んで立ち、右を見て、左を見た。森へ分け入っていく、人一人通れるくらいのはばの小道が見えた。それは右にも左にもあり、驚くほどまっすぐに整備されている。  こんな場所に小道があるというのは、考えてみればおかしなことだった。よくながめると、さらに不思議なことがわかってきた。小道の上にはさしかわす枝がなく、そこだけ空間になっているのだ。まるでケーキにナイフを入れてすこしずらしたように、密生した森が小道を境に切り分けられている。  フィリエルは思わず、小道の直線上と思われる自分の前の空間を手でさぐっていた。けれども、何も感じられなかった。 「壁って、何かがあるのではなく、何かがないってことなの?」 「ここにはないよ。ここは竜の道、壁の消えた部分だもの」  ルーンはきょろきょろしながらポケットを探った。 「正確に真西と真東に通っているように見えるけれど、たしかなことは……あっ、だめだ。磁石が壊れた」  ルーンは丸い方位磁石を見て舌打ちした。 「太陽で測るしかないな。ここには、磁石に影響するものがあるのかもしれない。これも調べないと。来てくれ、壁のふちを見つけなくちゃ」  何もかも忘れた様子でルーンはそう言い、右手へ飛ぶように駆けていった。イグレインが、いくぶんあきれたようにフィリエルにたずねた。 「あの人、はしゃいでいるんですか?」 「ルーンってそうなの」  フィリエルはあきらめ顔で答えた。  壁のふちを見つけるのはやさしかった。森のふちがそうだったからだ。そのあたりは、密生した木立ではなく、竜に倒された木も多かったが、太い倒木さえよけさせる、くっきりした道がついていた。 「ここならはっきり感じる」  手をあげたルーンが、驚きをこめて言った。 「フィリエル、わかるかい。これが壁だよ」  いぜんとして何も見えないが、フィリエルもそれを感じた。紗《しゃ》のとばりにさわったような柔らかな感触だった。そして、とばりと同じ感じに、押せばそのぶん向こうへいった。 「動くわ」 「うん……ゆっくり押せば突きぬける。なにものも通さないわけじゃないんだ」  何度か、ひどくゆっくりと向こうとこちらに出入りして、ルーンはそれをたしかめた。 「でも、少しでも速く動くと通さない。力が大きくても関わりないんだろうな」  ルーンが腕をふりあげて壁をたたくと、その手は弾むようにはねかえってきた。 「大きな倒木でもはじくんだから、強度はそうとうなものだろう。でも、ゆっくりだからといって植物の生長はさまたげるらしい。植物のほうが嫌うのかもしれない——小さなものはどうなんだろう。羽虫のように小さくてもさえぎるものだろうか——この壁、どの方向から光をあててもちょっとも見えないかな。太陽が西に沈むとき、よく見てみるべきかもしれない」  ルーンは立て続けにしゃべっていた。フィリエルも壁の不思議さにすっかり驚いていたが、どちらかというと、無邪気に驚いているルーンに目を奪われていた。そうして屈託なく顔を輝かせるルーンを見るのは、本当に久しぶりのことだったのだ。 「いったいなんだろうね、この壁は。どういうものでできているんだろう。それとも現象なんだろうか。こういうものがあると仮説をたてた博士は、まったく偉大だと思わないか」  ごく自然に、ルーンはフィリエルに笑いかけた。その笑顔を見たとき、フィリエルはさとったような気がした。ルーンが研究を最優先に選ぶのは、呼吸すると同じに自然なことなのだ。それは、フィリエルのことが好きでも嫌いでも、比べることのできないものなのだ。 (そしてあたしは、ルーンが好きなのだから、彼から喜びを奪うわけにはいかないんだわ……)  ふいにいたたまれないほど寂しくなり、フィリエルは自分がとうとう、あきらめようとしていることを知った。彼女の父が命をかけて探した、この南の果ての壁を、ルーンはエディリーンの墓の代わりにフィリエルに見せてくれた。それでよしとしなくてはならないのだ。 「ルー坊、おいで」  この寂しさをルーンにぶつけるわけにいかず、フィリエルはユニコーンの子を呼んだ。呼べば必ず来るルー坊でもなかったのだが、このときはひまがあったと見えて、ぴょんと跳ねてきた。  ところがルー坊は、そばまでくると急にいやそうになった。壁が気に入らないのか、壁をたたいているルーンが気に入らないのか、頭を低くかまえてから、思いなおして駆けていってしまった。  それが壁の向こうの方向だったので、フィリエルはあわてて後を追いかけた。 「こら、いい子だから、こっちへもどりなさい」  まったく主人になったかいのない生き物である。フィリエルはため息をついて、木陰で何かをしきりに探っているユニコーンの子をながめた。フィリエルの名付けがよくなかったのかもしれない。  ルー坊のいる壁の外の森をよくながめてみると、内と外では、植物に少し違いがあるかもしれなかった。だが、たしかなことは言えない。フィリエルにとって、南の植物の大半は名前も知らないものだった。太い幹から直接大きな葉が出ているもの、細い幹が束になってからみあっているもの、たれ下がった枝に奇妙な花のついているもの—— 「フィリエル、もどって。竜が来る」  ルーンが叫んで、フィリエルはわれに返った。かなりぼんやりしていたようだった。言われてはじめて、近づく足音に気づいたのだ。  それはまぎれもなく、かなりの頭数の竜が暴走する足音だった。フィリエルはすばやく駆けもどったが、そのとき思わぬことがおこった。ルーンのいる場所まで引き返す前に、彼女は弾んではじき飛ばされたのだ。 「きゃっ」  しりもちをついて、フィリエルは目を白黒した。さっぱりわけがわからなかった。自分は今、たしかにそこを通ってきたはずなのだ。あわてて少し場所を変え、もう一度試みたが、やはり同じに壁につきあたった。手でさわりながら走ると、どこまでも感触が続いている。どういうわけか、竜の道がなくなっているのだった。 (閉め出された? なぜ? あたしだけ?)  思わず血の気がひいた。後ろからは地響きのような足音がせまってくる。竜の群がこちらへむかっているのは確実だった。 「そっちへ行けないのよ」 「落ち着いて、フィリエル。ゆっくり通ればこの壁は抜けられるよ」  言いきかせるようにルーンは言ったが、ふりかえって群の姿を目にしたフィリエルは、落ち着くどころではなかった。気持ちがあせるととても無理だ。壁はやんわりと頑強に、見えないベールでフィリエルをはばんだ。 「じゃあ、これをとって」  ルーンはなんとかこちら側に手を出すと、フィリエルに黒い玉を握らせた。 「壁はいいから、火をつけて竜に向かって投げて。それからわきへ逃げるんだ」 「だめよ、火なんてないもの」  一式ポケットにつめこむルーンとはわけが違うのだ。フィリエルの荷物は壁の向こう側であり、今は何も手元になかった。少女の向こうでは、走り来る大群がみるみる大きくなる。ルーンもさすがにあわてふためいた。  イグレインが血相を変えて壁を探っているが、彼女も動作が速すぎて、どうにもできなかった。 「とにかく逃げて、フィリエル。森まで走って」  だが、竜の群はあまりにそばまでせまっていた。その群の広がりようを見れば、フィリエルが壁に並行して逃げきる時間はもうなかった。 「間にあわない。もう一度壁をためして」  フィリエルは思いきって、後ろ向きになって壁に入ろうとした。せまりくる竜との間合いを知らずにいるよりも、まだましだと思ったのだ。だが、そびえるばかりの緑の竜が無数に頭を並べ、土けむりを上げ、雷がとどろくような音とともに突進してくる光景を見るのは、これまた総毛立つものだった。 (踏みつぶされる)  無我夢中であって、自分が壁を通ったかどうかももうわからなかった。その一瞬に、フィリエルは竜たちが壁にぶつかってくるのを全身で風圧のように感じとった。そして、すべての音がとだえた。 [#改ページ]    第三章 影の王国      一  気がつくと、満天の星を見ていた。さやかに光る美しい星々だったが、どうも速く動きすぎる。一晩かかってめぐるはずの夜空を、ぐいぐいと漕《こ》ぎわたっていくようだ。 (あたしは、死んだのかしら……)  フィリエルはぼうぜんと考えた。死んで、星々の楽園へ来てしまったのだろうか。楽園では、星がすばやくめぐるものなのだろうか。  ひどく気分が悪かった。死んだのに吐き気がするとは、あんまりなことだとフィリエルは思った。ためしに目をつぶってみると、ゆっくり世界が回るのがわかる。つまり、めまいがしているらしかった。  彼女が横たわっているのは、どうやら固い地面だった。少し寒かった。寒気がしているのかもしれないが、外気が冷たく感じられた。  意識が徐々にはっきりしてきて、フィリエルは体を動かしてみた。そのとき、手に何かをもっていることに気がついた。手のひらに握りこめる大きさの、丸くて固いものだ。顔に近づけて、その玉の奇妙な匂いをかいだとき、起こったことを思い出すことができた。 (ルーンが壁ごしにこれをくれた。火をつけろって言って……でも、火がどこにもなかった。あたしは、そう、竜に踏みつぶされるところだったんだわ)  光景が脳裏によみがえり、フィリエルは半身を起こした。だが、まるで打ちたたかれるような頭痛が襲ってきて、しばらくは何もできなかった。竜に頭を蹴られるか何かしたにちがいない。しかし、それにしては外傷がなく、さわってもこぶ一つなかった。ともあれ、死んではいないようだ。こうまで痛みを感じるのは、生きているからこそだ。 (ルーンはどこへ行ったのだろう。イグレインは……?)  ようやくそう考えるゆとりができてきて、フィリエルは目を上げてあたりを見回した。そして、ルーンやイグレインが消え失せているばかりか、森まで消失していることを発見した。  星明かりはかなり明るく、地形がわからないほどの闇ではない。そしてその地形は、だだっ広い平原を示していた。星がたくさん見えるはずである。地平線がどれほど遠いかよくわからないが、平坦なことはたしかで、丈の短いわずかな木立のほかは、空をさえぎるものが何もなかった。  フィリエルは三たび考えなおした。やっぱりここは死後の世界だ。どんな技を使えば、あれほど茂っていた森をきれいさっぱり取り除くことなどできるのだ。  死ねば、こんなに淋《さび》しい場所へ一人で放り出されてしまうとは、知らなかったこととはいえ、割が合わない思いだった。ルーンたちに、いまわの言葉を告げるひまさえなかったものを—— 「気がつきましたか」  ふいに聞き慣れぬ声がして、フィリエルは飛び上がりそうになった。ふりむくと、少し離れたところに、ひょろりとした感じの男が立っていた。つばの広い大きな帽子を被っており、独特のシルエットを形作っている。  こんなに暗くなってから、得体の知れない男に声をかけられるのは問題だった。フィリエルは、へたりこんでいては不利だと反射的に思い、ふらつきながらも立ち上がった。それを見て、男は弁解するような口調で言った。 「あなたに触《ふ》れていいものか、よくわからなかったので、その……機能回復の様子をみてみました」  フィリエルは口を開かず、鋭く男を観察した。わずかな明かりでも、彼のくたびれた服装は見てとれ、高貴な騎士のたぐいでないことは明らかにわかる。だが、レイディ・マルゴットの言った山賊のたぐいと見るには、|剣呑《けんのん》な武装をしている様子がなかった。肩に平たく大きな荷物を背負っているが、その立ち姿に、気迫や脅威は少しも感じられない。  ついでフィリエルは、用心深く左右に目をやったが、この男の他にはだれも出てこないようだった。二人が口をきかずに立ちつくすと、あたりを支配するのは、かすかな風の音だけだ。それはほとんど静寂と言ってよかった。  ようやくフィリエルはたずねた。 「あなた、だれです」 「呼ぶ必要があるのなら、バードでかまいませんが」  男は答えた。それで、フィリエルもふに落ちた。帽子の様子から思い出していたのだが、言い出すにはあまりに不確かだったのだ。 「あたし、あなたとハイラグリオンの王宮で会っている気がします。女王陛下の吟遊《ぎんゆう》詩人《し じん》さんではありませんか?」 「もちろんそうです」  男は生《き》まじめそうにうなずいた。 「わたしもあなたを知っていますよ。クィーン・アンの末裔のお嬢さん」 「クィーン・アン?」 「初代グラール女王です」  フィリエルは肩の力をいくらか抜いた。その他の現状があまりにも異常なので、この男が自分を認めてくれたことだけでも、喜べることのように思えたのだ。 「あたしたち、死んだわけではないんですね」 「ええ、でも、あなたは危ないところでしたよ。まったく無茶をしたものです」 「知っているんですか? あたしが竜につぶされそうだったこと」 「いいえ。それは今初めて聞きました」  彼が少し歩みよったので、帽子の陰になっているやつれた面長の顔立ちが、フィリエルにもかなりわかるようになった。その表情が気づかわしげなことも、いくらかは見てとれた。 「そうだと困ると思っていたんですが、あなたはやはり、カグウェルの南から来たんですね」  フィリエルはいきおいこんで言った。 「そうなんです。あたしは、ルーンとイグレインといっしょに竜の道をたどって、世界の果ての壁を見つけたところだったんです。そうしたら、壁に閉め出されて、そこへ竜の群が来て。ここはいったいどこなんですか?」 「まいったな……これは」  吟遊詩人は、困惑した様子で口もとをなでた。 「これはたぶん、特異な事故です。わたしのつけた道の痕跡が残っているところに、あなたがやってきたものだから……そして石などもっているから、反応してしまったんだ」  フィリエルはきょとんとして、手にもった黒い玉を見た。 「石って、このことですか」 「ちがいます。あなたが首にかけている石のことです」  フィリエルはその意味にぎくりとしたが、先にはっきりさせたいことがありすぎた。 「とにかく教えてください。ここはどこなんです」 「砂漠のふちといったところです。この北西にトルバート国があります」  一瞬、フィリエルの頭の中がまっしろになった。思わずその場にしゃがみこみ、あわてて地図を思い浮かべようとしたが、うまくいかない。だが、それが事実なら、カグウェルの南の森とかけ離れた場所であることはたしかだった。 「どうしてあたしは、そんなところにいるんです」  息もたえだえにたずねると、吟遊詩人は言い迷ってから言った。 「用意もなく、生身《なまみ 》ですることではなかったんですよ。本来、あってはならないことです。わたしもこんなことは初めてです。弱ってしまいますね」  彼は本当に弱ったという態度で、自分もフィリエルの隣にしゃがみこんだ。そして、目線をあわせてたずねた。 「……どんな感じがします?」 「むちゃくちゃで、何がなんだかわからなくて、こんなのひどいといった感じです」 「それはそうでしょうが、身体感覚のほうは?」  聞かれて初めて、フィリエルは頭痛がいつのまにか去っていることに気がついた。 「頭が痛かったのとめまいはなおりました。でも、ちょっと寒いかもしれない」  彼はうなずいた。 「寒いか、そうでした。カグウェルから来たのだから、それで当然でしたね。砂漠気候の夜は温度が下がるんです。とりあえずは熱源を——火を焚きましょう」  吟遊詩人は体を伸ばし、フィリエルが立ち上がるために手をかしてくれた。 「足は? 歩けそうですか?」 「平気です。ちょっとだるいけど」  フィリエルが答えると、彼はおおげさなほどに安堵をこめた。 「よかったですね。あまりたいしたことにならなくて」 「あたし、たいしたことになっていると思うんですけど」 「あなたが壊れなかっただけ、ずいぶんましですよ。へたをすると、記憶が全部吹っ飛んだかもしれませんよ。あなたの場合、保存をかけてあるわけでもないのに」  言われてフィリエルも、少々考えなおした。 「無事ではなかったかもしれないんですね、ここへ来るには」 「もちろんです、無茶だと言ったでしょう。あなたのために用意した道ではないんですから。もうしばらくは、体の具合をみたほうがいいですよ。安定していないかもしれない」  なんとなく自分が、王宮の玻璃《はり》の花びんのような壊れものに思えてしまい、フィリエルはおとなしく吟遊詩人についていった。彼はフィリエルを灌木《かんぼく》の茂みのあるところへつれていくと、木々の間に座れる場所をしつらえ、枝を集めて小さな焚き火を作った。  彼の長い指が器用に火打ち金をあやつるのを、フィリエルは見るともなく見まもり、ぽつりとつぶやいた。 「……あたしが、火打ちさえもっていたら、こんなことにはならなかったんだわ」  吟遊詩人は驚いたようにこちらを見て、何を思ったか律儀に言った。 「よかったら、これ、あげましょうか。わたしには別のものもあるんです」  今さらとは思ったものの、フィリエルはくれるというので受けとった。 「あたしは、もといた場所へ帰らなくては。ルーンにさよならのひとことも言っていないんです。あなたの言う道とは、どんなものなんです。もどることはできないんですか?」 「できなくはないかもしれません」  考えこんだ顔で彼は答えた。 「むやみに実験台となることを奨励はできませんが、あなたは意外とタフですし。でも、少なくとも二、三日はあいだをおかないと無理ですよ。わたしでもそんなことはしません。分子構造が壊れます」  フィリエルはあきれた顔で見返した。 「二、三日も——あたしはここで、どうすればいいんです」 「わたしにつきあってもらうしかなさそうですね」  吟遊詩人は帽子を脱いでわきにおいた。フィリエルが以前に、よく覚えていられないと思った、彼の特徴の少ない顔立ちと、長い灰色の髪とがあらわになった。老けているようなのに顔にしわが少なく、年齢不詳の最たるものだ。髪の色も、年をとって灰色になったのかもともとその色なのか、フィリエルにはさっぱりわからなかった。 「これは不測の事態ですが、わたしにミスがないと評定されるものでもありません。あなたを、可能なかぎり短期のうちにもとの座標へもどしておくことが、起こったトラブルの対策としては、次善の策ということになりそうですね」 「とにかく、あなたがもどしてくれるんですね」  フィリエルはやや安心して吐息をついた。星空の下で目をさまして以来、やっと人心地がつくような気がした。そうすると、目の前の相手に対する興味もしだいにわいてくる。フィリエルがこれまでに会った人々のなかでも、一、二を争う風変わりな人物であることはまちがいなかった。 「あなたは、どういう人なんです」  ちらちらゆれる炎に照らされ、さらにこの世の人でないような印象をうける、年齢不詳の男を見つめながら、フィリエルはたずねた。 「女王陛下に仕えているんでしょう。いつもこんな不思議な、突然別の場所に出る道を使っているんですか?」 「わたしは吟遊詩人《バ  ー  ド》です」  そう言って、彼はすんなりとほほえんだ。 「ほらね」  彼がもっていた荷物から革の覆いをはずすと、ひざにかかえる大きさの竪琴《たてごと》が現れた。わくは黒檀《こくたん》のように黒くつややかで、細い金の模様といくつかの石が象眼《ぞうがん》されており、なかなか見事なつくりの楽器だ。弦《げん》をつまびき、調弦をはじめながら彼は言葉を続けた。 「わたしのとりえは偏在性《へんざいせい》です。言いかえれば、身が軽いということです。どこへでも気軽に出かけて行き、その場にふさわしい、真に興味深い音楽を見つけてくるというわけです」 「女王陛下にお聞かせするの?」 「ええ、まあ」 「ここへ来たのは、どうしてなんです」  フィリエルがさらにたずねると、吟遊詩人は少々間をおいたが、ほほえんだまま答えた。 「そうですね——あなたもクィーン・アンの末裔なのだから、お話ししてもかまわないでしょうね。実は、ここから目と鼻の先に、ブリギオンの軍隊が駐留しているんですよ。彼らがどんな音楽をもっているか、この機会に一つ聞いてみたいと思って」  フィリエルは目を見はった。 「あなたって、つまりスパイなんですか」 「うーん……言われてみればそのような」 「女王陛下は何もかもご存じだって、アストレイア女神のごとく言われるのは、あなたみたいな人がいるせいなんですね」  フィリエルはとがめるように口を尖らせたが、吟遊詩人はなぜか笑顔を深めた。 「そうだといいんですが、わたしなどまだまだ微力なものですよ。なんといっても経験値が不足していますから。打ち明けて言えば、わたしはずいぶん若いんです。まだ二代の女王にしか仕えていません」  フィリエルには信じられない告白だった。 「あの……つまり、コンスタンス陛下の前の女王様の時代から、ずっと王宮にいたということですか?」 「はい。ミランダ女王の戴冠《たいかん》式の日に、初めて王宮に呼ばれました。ミランダ陛下は温厚なかたでしたよ。慣れないわたしに、たいへん親切にしてくださいました。コンスタンス陛下も即位のころは、めっぽうかわいらしいかたでしたが、近頃はちょっとそうでもありませんね」 「……充分、年をとっていると思うんですけど」  フィリエルは低い声で言ったが、彼はけろりとしていた。 「あなたの年齢に比べれば、たしかにそうも言えますが、フィーリにかかるとはなたれ扱いで、そろそろ何とかしなければと思っているところです。そりゃあ、フィーリの年季はたいしたものですが、彼は老朽化の一方であって、わたしはバージョンが上ですからね」 「今、賢者《フィーリ》って言いました?」 「ええ、彼です。この世界が自分のおかげで回っていると思っている、ある意味では困ったじいさんですよ」  フィリエルは、なんとか自分の文脈でとらえようと頭をひねった。 「そのかたは、あなたのお師匠さんか何かですか」 「お師匠さん」  吟遊詩人はつまびく手をわずかに止め、うれしそうにその言葉をくり返した。 「いい表現ですね、それ、採用しましょう。今まで思いつきませんでしたよ」 (ずいぶん変な人……)  話せば話すほど、この吟遊詩人にはどこか変なところがあると思えた。彼に悪気がないことは、その態度を見ていてわかるのだが、言っていることにどうも違和感がある。だが、フィリエルが不信感をもったのとは裏はらに、男は楽しそうに言った。 「あなたとすごす二日間は、わたしには——何と言いましたか——けがの功名かもしれませんね。コンスタンス陛下が言われるには、わたしの話し方はまだだいぶへただそうです。でも、よけいな口をきくなと言われるから、ますます学習できなくなるわけで、わたしは学習したいんですよ。わたしが意味のわからないことを言ったら、それを指摘してくれますか? あなたも女王家の娘なのだし、年少のあなたにもわかる言葉で話すことができたら、わたしもいっぱしの国民になれるというものです」 「いいですけど……」  とまどいながらフィリエルは答えた。 「あなたって、本当に、年寄りなのか若いのかわかりませんね。その年で、まだ学習なんて言えるんですか?」 「どういう年になったら、学習できなくなるんですか?」  吟遊詩人は興味深そうに聞き返した。 「フィーリだって、今もデータ収集しますよ。ただ、回路が旧式だというだけで」 「その意味、わかりません」 「あ、すみません」 (……まあ、いいや……)  フィリエルはそう思った。二日だけ彼とすごせば、後はどうなろうとかまわないのだ。ルーンやイグレインは、消え去ったフィリエルをどう思っただろうと考えると胸がさわいだが、自分にはどうにもならないことだった。当面、できることはないに等しいのだ。  吟遊詩人がゆっくりとつまびく竪琴の音色は、眠気をさそう快いものだった。フィリエルは、気心の知れない他人の前で眠ることはできないと思ったが、いつしかまぶたが下がってきて、彼がフィリエルの体に上着をかけたのも気づかないほど、ぐっすり寝入っていた。      二  翌朝、目をさましたフィリエルは、昨夜はよくなかったと言える体調も、朝にはすっかり回復していることを発見した。なんといってもお腹が空いたのだ。  吟遊詩人に要求していいものか、ためらうものがあったが、とにかく手ぶらでこの場所に来てしまったフィリエルには、食べ物を得る手だてがなかった。見栄をはるのをやめて訴えると、男はあっさりうなずいた。 「わたしも、何か栄養を補給しなくてはと思っていたところです。ただ、今は持ちあわせがないので、しっかりした食事をとれるまでのあいだ、これでつないでくれますか」  そう言って、ひとつかみわたしてくれたのは、王宮でよく見かけた砂糖菓子だった。香料入りのキャンディや、木の実や果実をくるんだものだ。 「……甘いもの、お好きなんですか?」  ものすごく見かけによらないような気がして、フィリエルはたずねた。 「大好きですよ。おかしいですか?」 「おかしくはないでしょうけど……あなたって、なんだか、食べ物などなくても生きていけるような感じがするんですもの」 「とんでもない。わたしは大食いです」  なぜか自慢そうに、彼は胸をはった。 「栄養もとらないで、どうやって体を維持していくというんです。とくに糖質は、脳細胞にとっての大事なエネルギー源ですから、欠かす気はありませんね」 「意味がわかりません」 「あ、失礼」  吟遊詩人はすぐにあやまるが、その言葉を言いなおしてわかりやすくしようとはしないことに、フィリエルは気づいていた。だが、そのことにも、なんとなく慣れはじめていた。気にさわる癖をもつ人の癖を、我慢してあげるようなものだ。  もらった砂糖菓子を口に含むと、甘くておいしかった。フィリエルが歩きながら少しずつ食べて、全部を食べ終わったころには、二人の前に小さな町を囲む城塞が見えてきていた。 「この町はエルロイといって、ついこのあいだまでは、カラドボルスの統率下にあったところです。そのころはさびれた辺境の集落で、定期市に集まるのはわずかばかりの遊牧民だけという、城壁一つないところでしたよ」  吟遊詩人がフィリエルに語った。フィリエルは目の前の広場に見える、にぎやかな露店の様子をながめた。ケイロンほどの規模ではなかったが、それでも、さびれたという形容はできなかった。 「活気がありますね」 「ブリギオン軍の需要がありますからね」  言われてみて、フィリエルは露店に集まる人混みのなかに、ブリギオンの軍人とおぼしき男たちがいることを認めた。というのも、トーラスの授業で習ったとおり、彼らは一様にけばけばしい原色の妙な服を着ていたからだ。  吟遊詩人は言葉を続けた。 「トルバートをにらむ駐留が長期化することは、見る目のある者にはわかることです。軍隊を相手に商売する男も女も、この町に流れこんできます。戦争というものは、ある意味では殺しあいにとどまらず、流通を拡大する過激な方法と言えます。そして人間は、条件さえととのえば過激な方法を好むものですからね」  達観したような意見をのべる男に、フィリエルは言ってみた。 「なんだか、戦争に賛成しているみたいですね」 「とんでもない、わたしは戦争反対主義です。女王陛下とともにある身ですよ」  露店の並ぶ市場へ入りこんだ彼らは、はしから店をひやかして歩いた。調理した食べ物を売る店もいくつかあり、これはおいしそうだと見こむと、吟遊詩人は気前よく銀貨を払って買いこんだ。  彼がなかなかお金持ちなのを見て、フィリエルはちょっと安心した。もっとも、女王直属の人間が貧乏というのもおかしな話だが。  ここしばらくの旅では、固焼きのパンと水ばかりで、森に食べられる果物があれば僥倖《ぎょうこう》という毎日だったため、吟遊詩人といっしょに市場で食べ物を見つくろうのは楽しかった。フィリエルはいつのまにかはしゃいでいたし、それを食べる段になれば、もっとうれしかった。  吟遊詩人は二人前とは思えない量の食べ物を買いこんだが、少しも困らないようだった。彼の食べっぷりは、たしかに自負したとおり、笑ってしまうほどのものだった。  ほおばったものを飲みこんで、彼は言った。 「いい顔をしますね、フィリエル。あなたの笑顔は、どちらかというと、エディリーンよりもコンスタンスの若いころに似ていますね。隔世遺伝というものでしょうか」  フィリエルは、ふいに気がついた。王宮のだれ一人エディリーンのことを語ってくれなかったが、この吟遊詩人は、女王候補としてのエディリーンをつぶさに見ているのだ。 「エディリーンって、どんな人でした?」  吟遊詩人は、揚げた鳥肉をかじることのほうに気をとられているようだったが、聞きとりにくい声で言った。 「そうですね……エディリーンは、北のロウランド家で育ったにしては変わった女性でしたね。伯爵の息子がぞっこんなのは目にも明らかでしたが、冷めていて。まるで、彼女こそは処女神に似つかわしく思えました。ところがコンスタンスは、エディリーンのそのところが気に入らなかったみたいです。彼女自身、苦しい恋をしましたから——そのような心の機微《きび》を知らない者に、女王の座をまかせられないと言って。ところが、エディリーンは突如としてディー博士と駆け落ちしたんですね。これはなかなか驚天動地のできごとでした。王宮全体をゆさぶりましたよ」 「どうして彼女は、ディー博士を選んだんでしょうか」  フィリエルはたずねた。 「女王家には、いろいろな血が入りこみます」  少し考えてから、吟遊詩人は言葉を続けた。 「それはわざとそう仕向けているわけで、あらゆる可能性をもつ女王を想定できるわけです。統計学的な見地から言っても、それは長く生きのびるコツですし——あ、すみません。エディリーンの偏向は、彼女以前に、そういう配偶者を選んだコンスタンスやその前のミランダに、責任がないとは言えないでしょう。そうとなると、近親憎悪が生まれるんでしょうね」  フィリエルは、心を落ち着けようとしてから質問した。 「女王陛下は、エディリーンを憎んでいらっしゃいました?」 「否定はできません。しかし、憎むだけなら、彼女たちはとっくに抹殺されていたわけで、そのあたりが、わたしなどには解析できない心の動きというものですね。エディリーンは、時代を進める女性でした。陛下は、ご自分のなかのその傾向を恐れていらしたのだと思います」 「時代を進めるって、どういうことです」  吟遊詩人は、言葉を探して思案した。 「人間には、生来そなわったステップアップをめざす力があります。昨日よりは今日、今日よりは明日と、変化せずにはいられないのですよ」 「それが悪いことなんですか?」  フィリエルが声に不審をこめると、吟遊詩人は頭をふった。 「いいえ、悪いことではありません——しかたのないことです」  フィリエルはしばらく黙った。肖像画で見たエディリーンの面影と、天文台で娘に背中ばかりを見せていた博士の記憶が、胸の内をうずまいていた。 「……つまり、女王陛下は、心の底ではエディリーンの選んだことを認めていらしたのですね」 「どうでしょうか。わたしには、陛下の心の底まではとても読めません。なにしろ、経験値が足りませんしね。ただ言えることは、陛下がそれをお認めになるなら、向かうところは破滅の道だということです」  ぎょっとしてフィリエルは顔を上げたが、吟遊詩人は何の感興もなくそう言っているようだった。先ほどと同じに、大口でパンとチーズをたいらげている。 「グラールが破滅するということですか?」  吟遊詩人はもごもごと答えた。 「女王制の崩壊ですね。当初からそうなるだろうと予言した者はたくさんいました。賢者も、たんなる時間の問題だろうと評定しています。あなたがたは、なかなかの瀬戸際にいるんですよ」  フィリエルはショックを受けていったん沈みこんだが、そのうちに、ふてくされた気分とともに怒りがわいてきた。フィリエルの怒りは、目の前の吟遊詩人その人に、八つ当たり気味に向けられた。 「女王制なんか早く壊れてしまえばいいんだわ。そんなの、ちっともかまわない。けれども、あなたって人は、のうのうとパンを食べながらよくそんなことが言えますね」  彼は、目をぱちくりした。 「——解析できませんが?」 「不忠義者でしょう、そういうのって」  彼らは、広場のはずれの石積みを腰掛けにして食事していたのだが、フィリエルは声を荒らげて立ち上がった。 「あたしは女王家など迷惑だと、いくらでも考えられるけれど、同じことを、仕えているあなたから聞くことはないんです」  自分でもおかしなほど腹が立って、きょとんとした男の顔をこれ以上見ていたくないと思い、フィリエルは背を向けてその場を後にした。  こんなにかんしゃくを起こすのは、ルーンにふられた動揺が続いているせいだと、かすかにわかっていた。今のフィリエルは、女王制どころか、世界が崩壊しても痛くもかゆくもない気分なのだ。結局そこには、大事なものなど何もないのだから。 (グラール女王制は、壊れるものだったと考えれば、何かが変わるだろうか……)  頭を冷やすために、あてもなく露店のあいだを歩きながら、フィリエルは新しい考えをもてあそんでみた。  今、アデイルとレアンドラは、「ブリギオンの侵攻を止めた者を、この国の女王にふさわしいと見なす」という女王候補の課題に、真っ向から取り組んでいる。そこにロウランド家とチェバイアット家の派閥争いが加わり、グラール全体が二人の次期女王争いを軸に動こうとしている。  けれども女王陛下その人は、こんなふうにして、とんでもなく移動のできる不思議な手下を使うことができ、ちゃっかりブリギオン軍を視察して、女王候補の二手も三手も先を読んでいるのだ。これはかなり腹黒い、底意地の悪い構造なのではないか。  もしもこれで、アデイルかレアンドラのどちらかが女王の座につくことに決定したとする。女王になったアデイルかレアンドラは、アストレイアだけに与えられるこの超越的な特権を継承し、そのうちに、自分の子どもたちを女王候補として、同じに底意地悪く子どもを試すことになるのだろうか。  そう考えると、フィリエルはなんだか憂鬱になった。なんだかやりきれないし、希望がない。 (おかあさんも、そう考えたのではなかったかしら……)  だからエディリーンは、りっぱな女王になることを放棄したのではないだろうか。博士とのあいだにできた子どもを、自分で育て、自分で導こうとした。彼女は、生まれてくる子どもに、女王家にいては与えられないものを与えたかったのだ——まだ子どもが二歳のうちに、はかなくも他界してしまったけれども。  涙がじわりとわいてきた。フィリエルは結局、怒りたいのではなく、ぞんぶんに泣きたいだけかもしれなかった。 「どうしたの、かわいこちゃん。彼氏とけんか?」  かたわらから声がとんで、フィリエルは泣き顔で雑踏を歩くのはまずいと気がついた。だが、わかったときにはすでに遅く、四、五人の男が彼女を取り囲んでいた。  どの男も髪の色は黒っぽく、眉が濃く、赤と黄色や、青と緑といった二色づかいの服を着ている。その原色の組み合わせは、グラール人なら耐えられないもので、これはブリギオンの兵士たちに違いなかった。 「見たところ、女の子らしくないかっこうをしているじゃないか。まともな服ないの?」 「こちらの兵隊さんが、きれいな服を買ってくださるとよ」 「おうよ。俺様は、かわいこちゃんが泣くのを黙って放ってはおかない」  彼らはお互いに笑いあっており、ふざけているのだとよくわかった。だが、いずれも体格がよく、その濃い色の目はぎらぎらしているようで、フィリエルは平静ではいられなかった。 「けっこうです。どいてください」  男たちをよけて通り抜けようとしたが、彼らにはまだフィリエルを解放する気がないようだった。 「そうつれなくするなよ。俺たちは、このかいわいじゃけっこう知れた顔なんだぜ」 「名前なんていうの? 住んでいるのはこのあたり? めずらしい色の髪をしているじゃないか」 「つきあってくれたら、本当にドレスを買ってやるよ。なあ、そのへんで何か飲まない?」  フィリエルが途方にくれたとき、後ろでせき払いの声が聞こえた。ふりかえると吟遊詩人が立っていた。 「わたしが悪かったです。お願いですから、ここでめんどうをひきおこさないでください」  ブリギオンの兵士たちは、いくぶん気をのまれたように奇妙な風体の男を見つめた。だがフィリエルは、彼のつぎはぎしたみすぼらしい服にしがみつくと、わっとばかりに泣きだした。 「あんた、彼氏?」  兵士の一人がたずねた。 「いいえ、叔父です」  吟遊詩人はまじめな顔で答えた。 「他をあたってみてください。この子は、まだお相手するには子どもなんですよ」  フィリエルが泣くばかりなので、兵士たちも納得したようだった。彼らがつまらなそうに去っていった後で、吟遊詩人はため息をついた。 「あの兵士たちに酒が入っていたら、この程度ではすまないところでしたよ。フィリエル、不注意なことはしないでください。目立たずにカグウェルにもどるつもりがあるのでしょう」  彼は言ったが、あまり叱責口調ではなかった。泣きじゃくるフィリエルの背中を、覚えのある様子でやさしげにたたいた。 「さあさあ。あなたはたいへん不安定です。身体面以外でも、いろいろな安静が必要だ。泣かせてしまったのは、わたしの不明によるものでしたね」  それで二人は難なく仲なおりした——と、いうよりも、一方的なフィリエルの怒りがおさまったのだが。その日はそれからこともなくすぎて、日が暮れると、吟遊詩人は繁華街のそばに宿屋を見つけて、フィリエルにも一室をとってくれた。 「なんだか、あたしのために、ずいぶんお金を使わせてしまったわ」  別れて寝室へ行く前に、フィリエルはもうしわけなさそうに言った。イグレインが金づかいに几帳面《きちょうめん》なタイプだったので、フィリエルも旅の間に、ずいぶんものの値段を覚えたのだ。 「大丈夫です、これからかせぎますから」  にっこりして吟遊詩人は言った。 「明日は開業するつもりです。駐留軍のために娯楽を提供する人間は多いですが、わたしはけっこう、めずらしい歌を知っていますからね」 「ブリギオン軍に潜入するの?」  フィリエルが目を見開いてたずねると、先回りするように彼は言った。 「あなたはだめですよ。町中でおとなしくしていなければ。兵士がどれほど柄《がら》の悪いものか、昼間によくわかったでしょう。行ったら、肉食竜の前の子羊ですよ」  フィリエルはうっとつまったが、ためしにわがままを言ってみた。 「何かがあっても、あなたが助けてくれるでしょう。別のところへ飛ぶ道を知っているような人だもの。他にもいろいろ、あたしたちにはできないことができるんでしょう?」  吟遊詩人は一瞬考えてから、しかめっ面を作ってみせた。 「これはわたしの、絶対譲歩しないという顔ですよ。今の発言は、買いかぶりだと言っておきます。わたしには、ことを起こす権限が与えられていません。たとえ自分に危害が加わっても、それを回避はしません。したがって、他人を助けることなどあるまじきことです」 「だれかに殺されそうになっても、回避しないの?」 「ええ、死ぬでしょうね。その事態を招いた自分をまぬけと評定します」  フィリエルは気おされてまばたきした。 「あなたの仕事は、そんなにきびしいの?」 「わたしには、オブザーバーとしての存在しか許されていないんですよ」  静かな声で彼は言った。フィリエルにはその意味がわからなかったが、口にはせずに、素直におやすみを言った。  翌日。広場で歌い出した吟遊詩人の声は、市のたつ通りにまで響き、|喧噪《けんそう》を透きとおった雫《しずく》でうるおしていくかのようだった。聞き惚《ほ》れた人々が、あっというまに彼のもとに群がりはじめる。  彼のかなでる竪琴もまた、驚くほど胸にしみいる音色をしていた。切なくなるような、心なつかしいものを揺りおこすメロディー。彼の歌う歌そのものは、はんぱでなく意味不明だったが、どこかもの悲しく、人々をいつまでも聞いていたい心地にさせた。  ぼくにつくってくれるかい きぬのシャツ?    パセリにセージにローズマリーにタイム  はりもつかわず ぬいめもなしで    そしたらきみはまことのこいびと  それをあらってくれるかい むこうのいずみで?    パセリにセージにローズマリーにタイム  みずもわかない あめもふらないあのいずみで    そしたらきみはまことのこいびと  それをほしてくれるかい むこうのいばらに?    パセリにセージにローズマリーにタイム  アダムとイヴのそのむかしから           はなをさかせぬそのいばらに    そしたらきみはまことのこいびと  あなたはたずねた みっつのといを    パセリにセージにローズマリーにタイム  あなたもわたしに みっつこたえて    そしたらあなたはまことのこいびと  みつけてくれる 一エーカーのとちを?    パセリにセージにローズマリーにタイム  うみのみずとすなのあいだに    そしたらあなたはまことのこいびと  それをすいてくれるかしら ひつじのつので?    パセリにセージにローズマリーにタイム  そしてぜんぶにたねがまける         ただひとつぶのこしょうの みで    そしたらあなたはまことのこいびと  それをすっかりとりいれられる かわのかまで?    パセリにセージにローズマリーにタイム  くじゃくのはねで たばねてくれる?    そしたらあなたはまことのこいびと  しごとがみんなおわったら    パセリにセージにローズマリーにタイム  わたしのもとにいらっしゃい            きぬのシャツをうけとりに    そしたらあなたはまことのこいびと  フィリエルは他人の顔をして、聴衆の一人になってその場にいた。それが彼との約束だった。そして彼が、午前中の仕事を終えるか終えないかのうちに、前日に予言していたとおり、軍関係者のスカウトがやってきた。  彼が立ち去るときにも、しっかりと目で釘をさしていったので、フィリエルもあえて冒険はできなかった。吟遊詩人がどのようにしてどんなことを、カグウェルの軍隊から探り出すのかは、女王のみが知ることであり、フィリエルにはおよびでないことなのだった。 (知ってはいけないことが多すぎる……)  その日一日、かつてないほどすることがなかったため、フィリエルは、あたりさわりなく異国の町を見学するほかは、ただただ考えてすごした。今の自分が、今までとは違う新しい一歩を踏み出す基点にいることは感じとれた。だが、どういう一歩を踏み出すかが問題なのだ。 (あたしは、何がしたいだろう。このあたしにできることが、何かあるんだろうか……ルーン抜きで)  そう考えると、それが何十回目であっても突き刺すように胸が痛んだ。フィリエルは結論も出せないまま、だれ一人彼女を見知ることなく、彼女のほうも知らない町で、同じところをくり返してさまようばかりだった。  夜も更けてから、吟遊詩人が宿屋に帰ってきた。彼はフィリエルに食事をしたかとたずね、フィリエルが心配ないことを伝えると、あらためて言った。 「それでは明日の朝に、あなたをカグウェルにもどす道を整えましょう。ただ、やはり、これは想定された用途ではないので、十二パーセントほどの不確実性が残ります。これは決して少ない数値とは言えませんが、あなたはそれでもかまいませんか。リスクを覚悟する勇気はありますか?」  フィリエルはうなずいた。 「ええ、それでももどります。今日、ずいぶん考えたけれど、もう一度ルーンに会って、うやむやになってしまったお別れをきちんとしないことには、あたしは先に進むこともできないんです。そのことだけは、よくわかりました」      三  翌朝早くに、吟遊詩人はフィリエルを町からつれ出し、フィリエルが最初に目をさました平原へと向かった。最後の最後になって、帰路を阻止する何かがおこるのではないかと、フィリエルは城門を出るあいだもどきどきしていたが、見とがめられることはなかった。 「昨夜のうちに、準備はすっかりしておきました。なるべく来たときと同じ形がいいだろうと考えたのですが、まるっきり同じ道ではないので、こちらの基点を会わせても、向こうは少々ずれるかもしれません。それでも、カグウェルの南のシールド付近にはまちがいないです」  平原を歩きながら、吟遊詩人が説明した。 「準備って、どんなことをするんです?」 「それを説明できる言葉はないですね。数式で表現する試みなら、いくらかできるかもしれませんが、それにしたって、理解する人はいないでしょう」  少し考えてから、フィリエルは言った。 「こういうはるかな場所をわたる道が、みんなで使えるようになったら、とっても便利ですよね」 「そういう日は来ません」  吟遊詩人は、力をこめるでもなく断言した。そして、なぜ来ないかの説明は一言もしなかった。 「あなたが使うのも、これが最初で最後です。二度と同じことは起きません。もうプロテクトをかけましたから、他のだれであっても、今後誤って道を使うことはないでしょう」  やがて彼らは、フィリエルが横たわって星を見ていたとおぼしき場所までやってきた。そのあたりは草のほとんどない平らな地面で、周囲の風景から特定の場所を探すのはむずかしい。だが、目指すところは簡単にわかった。地面に半径が人の背丈くらいの円と六芒星《ろくぼうせい》が、白い粉で描かれていたのだ。  フィリエルは円から数歩離れて立ち止まり、目をしばたたいて見下ろした。 「なんですか……これ」 「少しは演出も必要かと思ったんです。わたしも、他人のために用意するのは、これが初めてなものですから——どういうものかと。あまり気にしないでください。目に見えるものを作ってみただけです」  帽子のつばに手をやり、言い訳をするように吟遊詩人が言った。そんな彼を見つめて、フィリエルはたずねた。 「あなたは最初に、あたしが誤って道を通ったのは、女王試金石をもっていたからだと言いましたね。最後に、これだけ教えてくれますか。女王試金石というのは、いったいどういうものなんです」  フィリエルは、首飾りのあるのどもとを服の上から押さえ、言葉を続けた。 「この石は、女王直系の血を判定するけれど、その他には何の役にも立たないと、アデイルは言ったはずでした。でも、どうやらそれだけではないみたいじゃないですか。ユニコーンがなついたり、今回の道を通ってしまったり。女王家がこの石をもつことには、どういう意味があるんです」  吟遊詩人の表情は平静だった。その穏やかさは、彼の顔にはりついて離れないものに見えた。 「女王試金石が、宝石として役に立たないのは事実です。その青い石は、値打ちとしてはほぼガラス玉ですね。しかし、別のレベルでどういう価値があるかは、あなたが女王になったときに教えてもらえることです」 「女王にしか所有できない知識というわけですね。あたしは女王にならないから、つまり一生教えてもらえないということですね」 「まあ……そうです」  吟遊詩人がうなずくのを、フィリエルは琥珀の瞳で見まもった。 「でもあたしは、いろいろなことを見聞きしました。あなたに出会って、またさらに。あたしが女王家外の者として、自分におこったことを知りたいと思うのは、止めようがないでしょう?」  吟遊詩人はやさしく少女を見返した。 「あなたにおこったこととは何です?」 「南の果ての壁を見たと思ったら、次に目をさますと砂漠のふちにいたことです。そしてそれが、女王陛下直属のあなたのせいだったこと」 「それは、きっと夢です」  彼はまじめな顔でそう言った。 「わたしとあなたは、夢の中で出会っているんですよ」 「何を言ってるんです」  フィリエルはあきれて、思わず声を大きくした。 「今ここにこうして、あなたと立っているじゃありませんか。これは現実でしょう」 「現実というのは、あいまいなものです。結局、あなたの目や耳や皮膚感覚といった感覚機能が、これを現実だと認識しているにすぎません。それを越えてまで、わたしを実体だと証明することはできないのです。立証というのは、二度同じことがあって初めてできるものです。わたしとあなたのこうした出会いは、二度とおこらないことですから、確かめようがないのです。ただ一度きりの説明不能なできごとなら、人はそれを、夢とか奇跡と言いならわすのですよ」  フィリエルは少しのあいだ、ただ目をまるくしていたが、やがて猛然と反論をはじめた。 「あたしは、初めてエルロイの町へ行きました。ブリギオンの兵士を初めて見たし、あなたの歌も初めて聞きました。この二日間のあいだに、何度も食事をとりました。こうした全部が夢であるわけがないでしょう」 「あなたがそう信じているだけでしょう。終わった瞬間から、それはただの記憶です。記憶は都合のいいものです」 「エルロイの町が現実にないと言うの?」 「もしもあなたが今後、エルロイの町を知るだれかと話して、明らかな一致を得るとしたら、それはつまり、奇跡がおきたということなのです。そう考えれば不思議ではあっても、受け入れられないことではない。奇跡を承認する人間は多いですよ」 「あたしは、あなたにもらった火打ち金をもっています。これ、返しませんよ。あなたがいたことの証拠にするもの」 「それすらも、ただの認識です。へんてつもない火打ち金を、わたしからもらったものだと考えているだけのことです」  腹を立てはじめて、フィリエルは鋭く言った。 「あなたがそこまで言うなら、あたしはもう、あなたの道を使いません。ここから歩いてカグウェルまで帰る。その距離を全部歩けば、だれにもこれを現実でないなどと言うことはできないでしょう」  吟遊詩人に動じる様子はなかった。声の調子も変えなかった。 「お望みなら、それでもかまいません。ただ、あなたは、終わりのない夢を見続けることになる。終わりのない夢を見ている人のことを、世間では何というか知っていますか?」  フィリエルは両手を握りしめた。 「ひどいわ、それがあなたのやり口なの。何が何でもなかったことにしてしまおうなんて」 「あなたがこの件に固執すれば、あなたはだれにも相手にされない人になる。そういう人生は、つらいものですよ。主観的な真実と客観的な真実は、くいちがって当然なんです。辺境の淋しい場所をたった一人でさまよったりすると、人の精神は幻覚を起こしやすくなるものです。そのときはそれが現実だと思っても、後には幻覚だとさとるほうが、生き方としては健全なんですよ」 「あたしは気が狂ってなんかいません」  ふくれてそっぽを向いたフィリエルを、吟遊詩人は静かになだめた。 「わかります。あなたは、とても柔軟で強靱《きょうじん》な精神の持ち主だ。でなければ、この道をわたって無事ではすまなかったはずなのですから。だから、わたしの用意した道をお帰りなさい。あなたなら、たぶん大丈夫のはずです。地表を行けば、どう考えても数カ月かかるし、途中で生命の危険にも会うでしょう。あなたには、早く帰りたい場所があるのでしょう?」 「でも、そうしたら、あなたはこれを夢にしてしまうのでしょう」  フィリエルが頑固に言うと、吟遊詩人はちらりとほほえんだ。 「わたしがするのではありません。あなたがするのです。これで無事にカグウェルにもどったとして、それから半年もすれば、あなたにもきっとわかります。この体験は、あなたにはどうにも位置づけられないものです。そうとなれば、あなたの健康さが歯止めをかけてくれます」  ふいにフィリエルは逆襲をこころみた。 「あなたはそれでいいの? 出会った人がみんなあなたを夢に片づけて、本当のあなたをだれも理解できないで、一人でだれも知らない道を行き来して、それで一生かまわないと思っているの?」 「わたしがですか?」  吟遊詩人は、いささか驚いた様子だった。 「それはちょっと思いつかなかったな……わたしが、自分を孤独と考えているかどうかですか?」 「女王陛下に仕えることを、どう思っているの。本当はつらい? それとも楽しい? 自分のしていることを正しいと信じているの?」  フィリエルがたたみかけると、吟遊詩人は、なんだか感心したようにあごをなでた。 「まいったな。今度、ひまなときに整理してみますよ。その領域は、正直なところ手薄でした。今まで、あまり必要性を感じなかったもので——」 「あなたの認識だって、あてにならないでしょう。自分のことがわかっていないなら、あたしとそう変わらないわ。人にえらそうなことばかり言ってはいけません」  フィリエルは、ちょっぴり勝利を感じてあごを上げた。吟遊詩人は、しかたなさそうなほほえみを見せた。 「そう言われても、なんですが。わたしは、厳密な意味では女王に仕えていると言えないんです。彼女はわたしが一番接する人間だし、情報も求められる限り伝えますが、わたしはただ、見守るためにいるんです。見守って、そして、結論を待っているんです」 「結論——女王制が崩壊するかどうかの結論?」 「ええ、まあ」 「あなたは、女王制が崩壊してもかまわないのね」  フィリエルが決めつけると、吟遊詩人は、どこか寂しそうな顔をした。 「しかたないとは思っています。ですが、かまわないとは思っていません。女王制の終わりは、そのまま世界の終わりですから」  びっくりしてフィリエルは聞き返した。 「世界? どういう意味での世界なの?」  だが、吟遊詩人は答えようとせず、ゆっくり頭をふった。 「フィリエル、あなたはもう行かなくては。日中はこの場所も、だれかが通りかからないとは限りません」  その口調に、フィリエルはくいさがっても答えてもらえないことを感じとった。 「……夢はここまでということなのね」 「これは夢ですが、あなたといっしょにすごせたことを、夢であってもわたしにとっては有意義だったと思っていますよ」 「本当に?」 「本当です」  しばらく間をおいた後で、フィリエルはたずねた。 「あたしは、どんなふうにすればいいの?」 「その、六芒星のまんなかに立つだけでいいです。感覚を刺激するものはないはずです。問題は、道から出た後ですね。体に気をつけて、すぐに無理をしてはだめですよ」  フィリエルは足を踏み出しかけたが、ふりかえってさらにたずねた。 「あなたは、ブリギオン軍を探ったら、まっすぐハイラグリオンの王宮へ帰るの?」 「ええ、たぶん」 「あたしのこと、女王様に話す?」 「情勢次第ですね」  彼の用心深い答えに、フィリエルはちらりと笑った。 「心配しないで。あなたを探して押しかけるような、むだなことはしないから。でも、あたし、自分の努力でかなう限りはこれを夢にしない。あなたがどういう人だったか、ずっと覚えておくわ。あなたが言ったことも、なるべく全部。いろいろありがとう、お元気でね、バード」  それだけ言うとフィリエルは、吟遊詩人の反論を聞かないうちにと、急いで線のなかに入った。  この道がはたしてどういうものなのか、今度こそ意識をなくさないで見てやると思ったのだが、それは少々無理のようだった。移動をするという感覚は、ほんのわずかも得られなかった。ただ、今回は覚悟して目を見はっていたので、周囲が消える瞬間を、かすめる程度とらえたような気がした。  それはまるで、ろうそくの火を吹き消したようであり、卵を割ったようであり、水をうっかりこぼしたようだった。空を横ぎる鳥の影がかすめるような喪失感。それが全てだった。 (このつらさを、うっかり忘れていた……)  気がついたら、今度もめまいと割れるような頭痛にさいなまれていた。フィリエルはげんなりして、もう二度と道を使えないと言われるのも、喜ばしいことかもしれないと考えた。  カグウェルの森の湿り気は、むっとする暖かさとともにフィリエルを包んでいた。まずまちがいなく、もとへもどってきたらしい。だが、前回の移動と同じで、すぐには起き上がる気力もなく、頭痛でろくにものが考えられなかった。あせってもむだだと思ったので、フィリエルは頭痛がなおるまでその場に寝そべっていた。 (あたしは、全部思い出せるだろうか……)  心細い思いが浮かんだ。吟遊詩人は八十八パーセントしか請けあわなかったのだから、どうかなってしまうこともあるわけで、そうなったときにも、フィリエルの身におきたことがわかる彼は、もうそばにいないのだ。  やっとのことで、ひじをついて頭を起こすと、フィリエルは木立に囲まれた窪地《くぼち 》に倒れていた。頭上の空は明るいようだが、限られた一部しか見えず、今が一日のいつごろなのかわからない。  竜の道の、向こうまで見通せる草原はどこにも見当たらなかった。どちらの方向に例の壁があるかも見定めがたい。バードの、同じ場所にもどれないという言葉は正しかったようだった。  フィリエルはしばらくのあいだ、その事実だけを認めていたが、次第に、これはなかなか容易でない情況だと気がつきはじめた。 (もう、三日もたっているんだったっけ……)  自分の消えた場所を探してもどるのはいいが、はたして、ルーンやイグレインがその場所にとどまっているだろうか。どこを探してもいないとなれば、三日もたてば引き返すのではないか。彼らとて、食糧はぎりぎりしかもっていなかったのだ。  しばらく迷ったが、フィリエルには、とりあえず壁へ行き着くことしか思い浮かばなかった。そうこうしているうちに、空の光が薄れてきたのに気がつく。木立を一つ通り抜けて、やや開けた空を見上げると、太陽がだいぶ傾いていた。もう夕方近くになるようだった。 (ずいぶん、時間がかかっているじゃない……)  憤慨して考えたが、ここへ着くのに時間がかかったのか、フィリエルが目をさますのに時間がかかったのかは、今ではわからないことだった。フィリエルは沈む太陽の位置を見て、真西との差をおおざっぱな見当で見取り、南と思われる方向へ歩き出した。  しかし、あたりはみるみる暗くなってきた。それとともに、フィリエルの気もくじけてきた。足元が見えなくなってから歩き続けるのは、危険なばかりのおろかな行為だ。不本意でも、夜が明けるまで待ったほうがよさそうだった。 (火打ち金をもらっておいてよかった……)  しみじみ思いながら、フィリエルは申しわけ程度の焚き火をこしらえた。自分のシャツのほつれから糸くずを引き出し、それを火口にして火をつける。  たった一人だと、深い森に降りてくる闇は身にこたえるものだった。鳥か虫かカエルのたぐいか、フィリエルには判別できないが、暗くなってからしきりに鳴くものがある。以前も耳にしていたかもしれないその声が、今となると不気味に肌にせまってきた。  三人で歩いた旅の、だれもが押し黙った最悪のときでさえ、今ではなつかしく感じられた。どんなかたちでもいいから、だれかにそばにいてほしいと思った。  フィリエルは、火打ち金とともにポケットから出てきた黒い玉を、することもなくもてあそんでいた。考えはいつしか、これに火をつけたらどうなるかということに向かっていた。 (これは、竜から身を守るためのもの……必要なときまでもっているのが、一番賢明なんだろう。でも、もし、今ここで火をつけたら……そして、その音がルーンの耳にとどいたなら……)  フィリエルはもういっとき考えた。だが、賢明な判断などは出てこなかった。 「いいや、やっちゃえ」  燃えさしを取り上げ、フィリエルはつぶやいた。どちらかというと、やってみたいという好奇心に負けていたかもしれなかった。たった一人で心細く、ずいぶん気が滅入っていたので、大きな音でもさせれば少しは浮上するかと思ったのだ。  効果は予想以上だった。  森に反響して梢をふるわす爆音がとどろき、フィリエルは悲鳴を上げて飛びすさり、背中を木の幹にぶつけてあえいだ。破裂音はさらに続き、彼女の作った焚き火の何倍ものオレンジ色の火花が、あたりかまわず明滅した。  耳のおかしくなるような狂乱は、長かったように感じられたが、実際は短い時間らしかった。フィリエルが三回くらい叫ぶうちには火花も音も止み、後には、いがらっぽい煙だけがもうもうと立ちこめた。 「うわー……びっくりした」  せわしい胸の鼓動を押さえ、フィリエルはもう一度つぶやいた。おそまきながら、すぐには無理をするなと吟遊詩人に言われていたことを思い出した。だが、まあ、心臓が止まりはしなかったようだ。 (今の音、聞こえなかったかな……)  フィリエルはため息をつくと、暗い梢を見上げて思いをはせた。何のためにルーンに会うのかは、もうわからなくなりかけていたが、とにかく会いたいのだった。たとえ自分がルーンの名を忘れ、自分がだれかを忘れてしまっても、フィリエルの習い性になったこの感覚だけは、消えずに残るのではないかという気がした。  森の奥で鳴く声は、フィリエルのいたずらとともにぴたりと止んでいたが、なごりの煙が薄れて消えるころには、ためらいがちに再開された。なかには、あらたに別の声も混じっていた。それは、鳥のさえずりに似たピイピイという声だった。  フィリエルがはっとしたのと、暗がりから灰色の姿が飛び出してきたのとは同時だった。ユニコーンの子は駆け寄り、得意満面に何度もあいさつすると、フィリエルの足に頭をこすりつけた。 「ルー坊、あたしの居場所がわかったのね。ずっと探していてくれたの?」  もとはといえば、こいつのせいなのだが、フィリエルも今はそう考えられなかった。ユニコーンの子がフィリエルを探していたことがうれしく、そのひたむきな様子がいとしかった。かがみこんで抱きしめ、盛大になでてやっていると、やぶをせわしくかき分ける音がした。  フィリエルは顔を上げ、ルーンが小型の竜のようにやぶから躍り出てくるのを見た。  ルーンの髪には葉や小枝がからみつき、着ている服はあちこち破れて、両手ばかりか、こめかみにもほおにもひっかき傷ができていた。顔をかばうこともせずにやぶに突っこむようなら、メガネも少し考えものだと、フィリエルはそんなことをちらりと考えた。  ルーンのほうは、フィリエルがどんな様子をしているかなど見てはいなかった。しゃにむに突進してくると、そのままフィリエルを抱きかかえて叫んだ。 「消えないでくれ、たのむから!」  彼は、フィリエルが同じことをくり返すのを阻止するつもりらしかった。フィリエルは、それは二度とないと言いたかったのだが、ルーンが思いきり抱きしめるので、すぐには声を出すどころか、息もできなかった。 「あのね……消えないから……少し腕ゆるめて」  しかしルーンは、少しも聞き入れる様子がなかった。ちょっとでも力をゆるめたら、フィリエルがいなくなると思っているようだった。体が折れそうなフィリエルは困り果てた。 「ルーン、あのね……」  フィリエルは、ルーンが肩を震わせて息つぎをくり返すことに気づいた。それは少しも収まらずにだんだんひどくなり、とうとう彼は泣きじゃくった。 「ひどいよ——」  隠しきれなくなった|嗚咽《お え つ》のあいまに、ルーンは声をしぼりだした。 「あんなふうに——いなくなるのは、ひどい。目の前で消えるなんて。どこにもいないなんて」  ルーンがこんなに泣いたことは、フィリエルの知っている限りでは一度もなかった。フィリエルはルーンの前で何度も泣いてきたが、ルーンがフィリエルの前で涙を見せることは、天文台の昔から絶えてないことだったのだ。けれども今のルーンは、天文台に来る前の、小さな子どもにもどったように手放しで泣いていた。 「ごめんね」  フィリエルもいっしょになって涙ぐんだ。フィリエルが理屈では考えられない移動をした後、彼女自身はかなたの地で、自分が生きていることを知ったが、残ったルーンに知る手だてはなかったのだ。そのまま消滅したと思っても不思議はなかった。 「これは、特異な事故だったの。あたしも、死んだとばかり思ったの。でも、もどってこられたから……」 「フィリエル——フィリエル」  ルーンは脈絡もなく何度も彼女の名を呼んだ。それはこの三日というもの、フィリエルが呼べど答えなかったことの埋め合わせのようだったから、フィリエルも泣きながらささやいた。 「ここにいる——ここにいるわ」  ルーンが比較的まともに話せるようになったのは、もう少ししてからだった。それでも彼は、フィリエルの肩を抱いた腕をほどこうとしなかった。  力のない声でルーンはつぶやいた。 「……こんな思い、もうしたくない。きみは、どうしてそんなに常識はずれなんだ」 「あたしもそう思う。常識をはずれているって」 「……どうして、おとなしくふつうのお姫様をしていられないんだ。もと王女の娘なのに」 「育った環境のせいよ」  ルーンは長いため息をついた。 「きみは、突拍子もないことを片端からやりとげる。この世の法則に合っていないことまでしてのける。ぼくは、もう、どうすればいいんだ——こんなにきみが、目の離せない、周りの肝を冷やすことばかりし続けるなら」  フィリエルは小声で言ってみた。 「あたしを、目のとどくところに置くというのはどうかしら」 「それができるくらいなら、最初からしているよ」  ルーンはようやく自分をとりもどしたようで、フィリエルから手を離し、見えなくなったメガネをはずして、ぬれっぱなしの顔をぬぐった。そして、あちこちのひっかき傷にしみたために、顔をしかめた。  そのころには、ルー坊が頭突きに疲れて音を上げていた。彼はルーンを排除しようと猛然と闘ったのだが、まるっきりルーンが意に介さなかったのだ。ユニコーンの子がすごすごと立ち去るのを見ながら、フィリエルは言った。 「ルー坊は、あんなにルーンが嫌いなのに、あなたといっしょにいたのね」 「あのユニコーンの子は、きみが消えた後、壁のそばを離れようとしなかったんだ。だから、ぼくも待ってみる気になった」 「イグレインは?」 「一日半探してから、ユーシスのところへ事態を告げに行った。どちらかが行くなら、彼女がいい」  ルーンはメガネをぬぐったが、すぐにはくもりが取れなかったので、彼はそれをポケットにしまいこんだ。 「おととい——昨日——今日。もう、だめだと思った。きみが現れるのを待っているなんて、ばかげたふるまいだと。でも、今朝しばらくしてから、ユニコーンの子が落ち着かなくなったんだ。それで、もしかしたらと思って、後を追ってきた。そしたらさっき、火薬の音が聞こえたんだ」  フィリエルはほほえんだ。今は少し、そのことをうれしいと思う気持ちの余裕が出てきた。 「あたしのこと、本当に心配していてくれたのね」 「ぼくを何だと思っているんだい」  文句の口調でルーンは言った。 「あんなに説明のできないことをされてみろよ。よく気が狂わなかったと思うよ」  フィリエルは、小首をかしげてルーンを見た。 「ねえ——あたしのこと、ちょっとでも好き?」  ルーンの目は、フィリエルよりずっと赤くなっていたが、それでも驚いたように見返す元気はとりもどしつつあった。 「それを、今から言わなくちゃいけないのかい——ぼくが、ここまでした後で?」 「だって、ルーンは今まで一度も言ってくれないんだもの。好きだと言ったのは、あたしだけよ」  フィリエルはいくぶん|拗《す》ねた声になった。 「あなたはちっともそう言わないし、その上、あたしよりも研究が大事だと言うから、あたしはつい、あなたには大事に思ってもらえないんだって考えてしまったのよ」 「今さら、言えるものじゃないよ。す——好きだなんて」  ルーンは本当に言いにくそうに、途中でつっかえた。 「だいたい、きみ、もう納得しているじゃないか」  ルーンが腹を立てそうだったので、フィリエルはこの件をもう少しとっておくことにした。|矛先《ほこさき》を変えて言った。 「ねえ、ルーン、あたしのことも研究してくれないかしら。あたしって、りっぱに世界の謎だと思わない?」  ルーンはためらいがちにフィリエルを見た。 「そりゃあ、性格から何から全部そうだと思うよ」 「あたしの性格は別として、今回あたしが消えたことには、女王試金石が関係しているのよ——これよ」  フィリエルは、ずっと服の下につけ続けているエディリーンの首飾りをルーンに見せた。ルーンは、フィリエルが|襟《えり》もとのボタンをはずしたときには、ぎょっとしてよそ見をしたくせに、やけにじっと見入っていた。 「その宝石が、消えた原因だと言うのかい」 「長い話になるけれど、聞いてくれる? ルーンだけは、あたしに、夢を見たんだと言わないとわかっているから」      四  フィリエルのつくった焚き火を、もう少しまともなものにしたルーンは、炎を囲んで座りこみ、フィリエルの語る話に耳をかたむけた。フィリエルは、自分がユニコーンの子を手に入れたいきさつからはじめて、今回偶発的にまきこまれた、不思議な道と女王陛下の吟遊詩人について、勢いよく話し続けた。  記憶がまったく鮮明で、どんな小さなこともはっきり思い出せることが、フィリエルにはひどくうれしかった。途中でフィリエルのもとへもどってきたルー坊が、丸くなって眠ってしまっても、まだ彼女の話は終わらなかった。  しかし、エルロイの町の話はよいとしても、そこに至った道の体験は、どうしてもあいまいにしか伝えられなかった。炎を見つめるルーンの顔を見ていると、フィリエルも、彼女が昔、天文台の暖炉の前でルーンに語った物語とたいして変わらずに聞こえることを、認めないわけにはいかなかった。  ようやくフィリエルは話をしめくくった。 「——そういうわけだったの。あなたはあたしが消えたところを見ているのだから、この話を信じてくれるでしょう?」 「うん——」  ルーンは、やや返事をにごして頭をかいた。 「でも、きみの言うことを全部信用すると、頭が壊れそうだね」 「だからこそ、信用してほしいのよ。でなければ、あたし一人、頭が壊れていることになってしまうもの」 「理屈に合わないからって、認めないでいるつもりはないよ」  まじめな顔でルーンは言った。 「星の軌道が計算とくいちがうことだって、初めはただ単に理屈に合わないことだったんだ。けれども博士は、推論を重ねてその原因を見出した。それと同じように、ただ原因を見出せないだけで理屈に合わないことが、世界にはまだまだたくさんあるに違いないんだ」  フィリエルは顔を明るくした。 「そうなのよ、それよ。世界の謎なのよ。あの変わった吟遊詩人の謎は、だれかがいつか解明するべきだわ」 「でも、立証できないと、そいつが言ったのはたぶん嘘じゃないね」  ルーンは慎重な口ぶりで言った。 「世界の果ての壁は、そこにあったから推論がまちがっていないことが確認できた。でも、その詩人の道は、だれにも二度とお目にかかることができないんだろう?」 「でも、あったのよ。あたしも気絶していて、詳しく説明できないのが残念だけど、あたしをエルロイの郊外へ運んだものが、たしかにあったのよ」  フィリエルが力むと、ルーンはふいに別の疑問を出した。 「なぜ、エルロイなんだろう」  またたきしてフィリエルは言い返した。 「移動した先がどうしてエルロイだったかは、さっき話したでしょう。バードには、ブリギオン軍のスパイをする仕事があったからで、あたしは彼の移動した跡を通ってしまったからよ」 「それはもうわかっているよ。ぼくが言いたいのは、ブリギオン軍がなぜ、エルロイの郊外に駐留しているのかってことなんだ。エルロイは、砂漠の南側のふちのところだろう」  ルーンは木の枝で、すばやく地面に地図らしきものを描いた。 「砂漠の主要なオアシスをつなぐ中央ルートは、トルバートを通って東西に伸びているはずだよ。ブリギオンの首都フォマルハウトも、このルートの延長線にあるのだし、トルバートへ軍隊を進める最適の道といえば、中央ルートのはずだ。それなのに、なぜ、遠回りもいいところのエルロイなどに駐留しているんだろう」 「……本当だわ」  ルーンの地図を見て、フィリエルも納得した。 「軍隊を進めるには補給線が大事だって、イグレインが言っていたのに、よけいに長くしているのね」  少し考えてから、ルーンはあきらめたように木の枝を火にくべた。 「どのくらいの兵力がエルロイに配備されていたのか、きみは見なかったんだし。これだけでは、何もわからないよ。けれども、もしかしたら、ぼくたちはブリギオンの力を甘く見すぎているのかもしれない」  フィリエルは感心してルーンを見た。 「考えもつかなかったわ。あなたが道を通ってエルロイに行ったほうが、もっといろいろなことが見てとれたのにね」 「そんなことないよ」  そっけなくルーンは言った。彼は|謙遜《けんそん》する人間ではないので、これは本気でそう言っているのだった。 「その吟遊詩人は、行ったのがフィリエルだったからこそ、それほどたくさんの話をしたのだと思うよ。きみには、どこか、接した人間が思わぬことまで話してしまうところがあるもの」  フィリエルはびっくりし、少しうれしくなった。 「本当? どうしてかしら」 「きみって、頭が悪く見えるんだよ」  彼はむやみに人をけなす人間ではないので、これも本気で言っているのだった。 「実際よりも、見た目がそうだということだよ。たとえば、アデイルがそういう女の子だ。あの子は、一人では何もできませんという顔をしていながら、けっこう裏ではすごいことができる。それなのに、周りの人々はつい彼女を放っておけなくなって、いろいろ世話を焼いてしまうんだ」  フィリエルは怒ろうかと迷ったが、結局怒らないことにした。 「アデイルのことは認めるわ。彼女には何度驚かされても、やっぱり、かわいい人だと思ってしまうもの」 「彼女の武器だね。レアンドラがもっていないものだ……ある意味、レアンドラのほうが正直かもしれないけれど」  ルーンはつぶやくように言った。フィリエルは、思わず彼の顔をさぐるようにうかがった。 「レアンドラのかたをもっていない?」 「だれもそんなことを言っていないよ」 「あやしい」 「どうして」  ルーンがどれほど否定しようと、この疑いはしばらく消えないだろうと、フィリエルは考えた。アデイルが愛くるしさのかたまりなら、レアンドラは媚薬のかたまりのような人物なのだから。  ため息をつき、フィリエルは論点をずらした。 「あの二人のどちらが、オーガスタ王女の女王試金石を手に入れることになるのかしらね。そして、それを、どのように使うかしら。ルーンはどう思う——二人のどちらが女王にふさわしい?」 「ぼくには、あまり関係ない」  陰気な声でルーンは言った。 「どちらが女王になっても、それなりにうまくやるだろうし、うまくやるなら、正統派と異端とは明瞭に区別され続けるだろう。そしてぼくは、どんなふうにころんでも、異端にしか道を見出せない人間だから」 「でも、ここにも一つ、女王試金石があるのよ」  フィリエルは静かに言った。 「今回のことがあって、あたしは考えたの。これほどの謎を、国民の目から覆い隠している女王とはいったい何だろう——って。女王だけが知り得ることと、他の人々が知っていることに、これほどのずれがあっていいのだろうか——って。アストレイア女神の技だと言われているけれど、そこにはちゃんと根拠があるのよ。根拠の一つがこの、女王試金石なのよ。そしてあの、風変わりな吟遊詩人——」  息をついで、フィリエルは言葉を続けた。 「あの人は、あたしがこのできごとを位置づけられないと言ったわ。たしかに、ルーンがいなかったらそうだったかもしれない。でも、今は、こう思えるの。あたしはこの謎が知りたい。女王試金石がどういうものかを知りたい。それが女王にしか許されない知識だとみんなが言うなら、女王の|庇護《ひご》にある世界を捨ててもそれを知りたい」  ルーンは息をのんだ。 「フィリエル、そんなこと……」  フィリエルは琥珀の瞳を真剣に輝かせて、ルーンに言った。 「最初に言ったでしょう、あたしのことを研究してほしいの。この女王試金石、これが何なのかを解明してほしいのよ。あなたが彼らを信用するなら、あなたを助けた蛇の杖の人たちにも。ただ、アデイルには石を手放さないと約束したから、あたし自身も女王試金石についていくわ。研究にかかわることでは、あたしにできることが何もないのは知っている。そのかわり、あたしには提供するものがあると思ってくれないかしら。仕事がないなら、下働きでも皿洗いでも何でもするわ。あたしがそうしたいからよ。あたしも世界の謎が知りたいの」  ルーンはしばらく何も言わなかった。それから、ぽつりとたずねた。 「……ユーシスとの約束はどうなる?」 「竜の侵入路は、あのときふさがれたでしょう。それならユーシス様は、四頭だけで竜退治をすすめられるはずだわ」 「ちがうよ。きみを踏みつぶしそうだった竜たちは、たしかに壁にはばまれたけれど、翌日にはまた開いていたよ。あそこは、理由がわからないけれど、壁があったりなかったりするんだ」  フィリエルは少し考えたが、それから言った。 「どちらにしろ、あたしが伝えに帰るべき情報は、イグレインがすでに伝えてくれたわ。ユーシス様がご自分で壁を見にきたなら、さらにいろいろ納得するでしょう。あたしの役目は終わったようなものよ」 「それでいいのかい、ユーシスにこのまま無事を知らせないことになっても」  ルーンは疑わしそうにたずねたが、フィリエルはほほえんだ。 「イグレインは、あたしなどより何倍も役に立つ子よ。奥方様からうけた任務の挽回のためにも、ユーシス様のために働いてくれるわ。たぶん、こうなってよかったのよ」  ルーンは一瞬、妙に生き生きとなった。 「きみにとって、ユーシスはその程度のもの?」 「ユーシス様は、あたしにはもったいないほどよくできた、すばらしいかたなのよ」 「あっそう」  再びルーンは、むっつりと黙りこんだ。  フィリエルは、それにはあまり気づかずに続けた。 「あたしは、アデイルとはりあう気は毛頭ないの。ユーシス様だって、本当はアデイルのためにしか生きようと思っていないのよ。あたしに婚約を申しこんでくれたのは、それが無意識であっても、アデイルがそれを喜んでいるからなの。貴族の男の人って、結婚とか子どもをつくることとかは、それほど大切なことではないのね。ただ、それでもうまくいくかもしれないと思ったのは、あたしにも他に大事な人がいたせいよ」  フィリエルは炎のほうにかがんで、ルーンを見やった。 「あたしは、ユーシス様に好きだと言ったことは、一度もないのよ」  ルーンはちらりとフィリエルを見た。 「言葉がすべてじゃないよ」 「それ、どういうこと?」  フィリエルがたずねると、ルーンは立ち上がり、フィリエルの隣にきて腰を下ろした。 「自分の言ったこと、本当に後悔しない?」 「あたしはいつだって、後悔しないわよ」  フィリエルは言い返した。どの件についてたずねているのか、せわしく考えてはいたが。 「本当にもう、ハイラグリオンの王宮へもどるつもりはないんだね?」  フィリエルはうなずいた。その件ならば確信があった。 「それはずいぶん最初から、決心していたことよ。だいたい、あたしは王宮を出るつもりだと、あなたにちゃんと言ったのに、あなたは黙って一人で去ってしまったんじゃないの。あれはまったくの裏切り行為だったわよ」 「わかったよ。それなら……」  ルーンは言いよどみ、次の言葉を考えている様子だった。フィリエルがてっきりそうだと思っているうちに、彼はふと体を傾けて、フィリエルに口づけした。 「……これからは、もう、他のだれともキスしちゃだめだよ。それでいいかい?」  フィリエルは、びっくりすると同時に少々赤くなった。だが、言われたことには憤慨した。 「あのね……あたしが、よそのあちこちでキスしているような言い方、しないでくれる?」  彼女の抗議をよそに、ルーンは真剣な表情で言葉を続けた。 「きみがキスをするのは、これからは、ぼくとだけだよ。他にしたがるやつがいても、もう許してはだめだよ。もしもきみに、無理やりキスをせまるようなやつがいたら、ぼくがそいつを殺してやる。それでいいかい?」  彼には前科があるので、これは言葉のあやとも言いがたかった。ルーンはどちらかというと静かで、知らない人間には無感動かとも思われる知的なタイプだが、ある一線を越えると過激な人間なのだと、フィリエルは今にして思った。  それは、無風状態の生活だけを送っていたセラフィールドでは、フィリエルにもうかがい知ることのできなかったルーンの一面だ。だが、意外ではなく、否定する気もおきなかった。過激なところも全部含めて、ルーンはルーンだと言えた。 「いいわよ、それで」  小声で笑って、フィリエルは答えた。結局、フィリエル自身も過激なタイプだったのかもしれないから。 「他のだれともしないと約束する。そのかわり、ルーンも同じことを誓わなくてはだめよ」  ルーンは、息をつめて彼女の返事を待っていたが、それを聞くと、ふっと笑顔になった。手品でとりだしたような極上の笑顔だった。その笑みが消えないうちに、彼はフィリエルに二度目の口づけをした。 「誓うよ」  それから、顔を近づけたまま、補則を加えるような態度で言い添えた。 「……だけど、きみとぼくなら、何度してもかまわないんだよ」  フィリエルは笑いだし、もう一つキスをした。そして、しばしうっとりした。  ルーンが身じろぎしないので、彼もそうだとばかり思っていたのだが、やがてルーンは、ぼそりとつぶやいた。 「……まずった……」  フィリエルはあわてて体を離した。彼の顔を見ると、思っていたよりずっと青白かった。 「ルーン、どうしたの。何があったの」 「安心したら……目がまわる」  彼が今にも倒れこみそうなのを見て、フィリエルは甘い気分も消しとんで仰天した。だが、ルーンは力のない声で言い訳した。 「病気じゃないよ。なんでもないんだ……ただ、この三日、あんまり食べなかっただけで」 「食べるものがなかったの?」 「いや——食べる気にならなかったんだけど」 「荷物は、食糧は?」  フィリエルがたずねても、ルーンは首をふっただけだった。あれほど何でも持ち歩くくせに、食糧のことは忘れてきてしまうのだ。 「しようのない人ね。あたしも、何ももってきてはいないのよ」  おろおろするフィリエル自身は、今日道を通ったばかりなので、ほとんど空腹を感じていなかった。だが、吟遊詩人とともに、エルロイでふだん以上にたっぷり食事をとっていたことを思い出すと、とてつもなく後ろめたかった。 「そのへんに、食べられそうな木の実があるかもしれない。探してみるわ」  燃えさしを手に立ち上がったが、そのフィリエルの服の裾を、ルーンがつかんで引き止めた。 「だめだよ、フィリエル。ここにいたほうがいい」 「だって、ルーン。餓死してしまうわよ」  ルーンは首をふった。 「そんなにすぐに死なないよ。きみが鳴らした火薬の音は、遠くまで届く。あれはぼくらの合図なんだ。もうじきここには仲間がくるよ——ヘルメス党の人間が」  ポケットをさぐると、ルーンはもう一つ同じような黒い玉を取り出した。 「これも、きみが鳴らしてくれるかい。そうすれば、もっと確実になるから」  フィリエルも今度は用心して、点火と同時に耳に指をつっこんだので、二度目の爆発にはさわがずに耐えられた。寝ていたルー坊が跳ね起きて、茂みに逃げ、ピイピイと文句を言ったが、それだけだった。ルーン本人はぐったりしたままで、ほとんど反応もせずに座っていた。  音が鎮まってから、しばらく待つあいだ、フィリエルはどんな人物が現れるかとどきどきした。フィリエルにとって、蛇の杖のイメージは、天文台を襲った乱暴な男たちの記憶しかもたらすものがなかったので、ことさら不安が大きかったのだ。  それでも、今は、彼らに自分たちの運命をゆだねるしかなかった。ルーンには休息が必要だし、自分には居場所が必要だ——彼らが、フィリエルまで受け入れるかどうかはわからないものの。  ルーンに目をやると、活力切れをおこした彼は、さっきにも増してぼろぼろに見えた。中断してしまったことが残念でならないフィリエルだったが、今の状態のルーンに言えることではなかった。 「ルーン、横になったほうがきっと楽よ」  フィリエルのすすめに、ルーンは首をふった。 「いいよ……ケインが来るまで、このまま待つ」 「ケイン?」 「うん。きっと、彼がくる」  ルーンがそう言って、まもなくのことだった。ルーンのようにやぶを大きく鳴らすこともなく、一人の男が現れた。ひっそりと、影からわいてきたかのようだった。フィリエルは目を見はって男を見上げた。  彼は覆面をしてはいなかったが、黒い帽子と黒の服は、以前に見た男たちに少し似ていた。だが彼は、背が高いものの威圧感のない、やせた感じの男だった。もう若くはなく、三十代の後半くらいだろうか。やつれたしわを刻んだ面長の顔をしていたが、まなざしは穏やかだった。鉄灰色の髪を長く伸ばし、後ろで結んでいる。 (この人……なんとなくバードに似ている)  フィリエルが一番驚いたのはそこだった。彼が現れたとき、道の向こうでおきたことがもう一度おこったような気がした。目の前の男には、年齢が見てとれる跡がちゃんとあるのだし、二度と会わないと言った吟遊詩人が現れるはずもないのだが。 「あの……ケインさん……ですか?」  フィリエルは小声でたずねた。男は、やや目を見開いて少女をながめた。 「ふうん、おつれがいたのですか。救難信号はそのせいですか?」  気のせいか、声まで吟遊詩人に似て聞こえた。彼はルーンにたずねたのだが、フィリエルはルーンが口を開くよりも早く言った。 「あたしが鳴らしたのは偶然です。でも、今さっき鳴らしたのは、ルーンが三日も食べていないからなんです。あの、何か、口に入れるものをもっていません?」  ルーンは気まずくなったのか、黙って何も乞わなかった。男は顔色の悪いルーンを見つめ、了解したようにうなずいた。 「そんなことではないかと思っていましたよ」  彼は小さな水筒を取り出して、黒っぽいお茶のようなものをつぎ、ルーンに飲ませた。ルーンは飲む前にちょっと顔をしかめたが、明らかに経験がある様子でそれを飲んだ。フィリエルが見入っていると、ケインは彼女をうかがった。 「あなたも飲みますか。元気になりますよ」  フィリエルはそれほど必要に感じなかったが、興味があるのでついでもらった。ややとろりとして、口に含むと強烈に甘く、少し苦く、煎《せん》じ薬の風味がした。 「これ、何です?」 「蜂蜜と、薬草酒と、あといろいろを混ぜたものです。あまり食べないでいると、胃が弱りますからね」 「あなたは、お医者さん?」 「まあ、よろずやっています」  ケインは笑顔を見せた。しわを刻んでいても、笑みそのものは若々しかった。 「この少年には、以前も食べ物を届けましたからね。用意すべきものは予想がつきました」 「あっ、やっぱり」  フィリエルは思わず大きな声で言ってしまった。 「ルーンは、すぐに食べるのを忘れるんです。カグウェルでしばらくぶりに会ったとき、元気そうだったから、自分で気をつけるようになったかと思ったんですけど、やっぱりめんどうを見てくれる人がいたんですね」 「一度だけだよ」  ルーンがむっとして強調した。ケインは、ルーンのそうした態度を気にとめないようだった。 「わたしのところでは、飲食を忘れる人物はそれほどめずらしくないんです。研究する人間というのは、一つのことに没頭してしまいがちですからね。そのぶん、世間のあれこれを、目鼻のきく他の人間が見なくてはなりません。手のかかる話ですが、わたしのような、よろず世話を焼く者が必要とされるんですよ」  彼は話しながら、酵母の入らないパンと、干した果物と、細かく裂いた薫製《くんせい》肉を、驚くほどたくさん取り出した。そして最後に大きな水筒を置いた。 「今の薬が胃に落ち着いたら、食べはじめていいですよ。ただし、ゆっくりとよく噛んで」 (この人、いい人だ……)  フィリエルは、すごく感心してそう思った。ケインの言うことは、フィリエルにすみずみまで納得できるところが、吟遊詩人とは大違いだった。他人が知るはずもないのに、まるで彼は、セラフィールドの天文台について語ったように思えた。  その上ケインには、いばったところも疑り深いところもなく、ルーンに接するにもあっさりして、恩着せがましい態度を見せない。もし、初めて会った蛇の杖の人間が彼だったら、黒装束の印象は、もっと違ったものになっていたはずだった。 「あたし、フィリエルといいます。フィリエル・ディーです」  フィリエルは唐突に名のった。ケインは驚きはせず、静かにうなずいた。 「そうではないかと、うすうす察してはいました。ギディオン・ディー博士の娘さんですね。あなたがカグウェルに来ていることは、他から聞いて知っていました」 「父のこと、ご存じでした?」 「お会いしたことはありませんが、博士がまだお若く、ハイラグリオンの王立研究所に在籍するころから、彼の高名は鳴り響いていましたよ——わたしどものいる影の場所ではね」  フィリエルは、少しためらってからたずねた。 「あの、博士は——父は、あなたがたに、ずっと連絡をとっていたんでしょうか」 「ディー博士は、それを望んでおられたと思いますよ。けれども、むずかしいことでした」  ケインは革の手袋をした指を、ひざの前で組み合わせた。 「わたしどもにも、いろいろごたごたがあったんです。組織が大きくなれば、分派もでき、影につくられたものだけに、さまざまなものを吸い寄せてしまう。ライアモン殿下の参入で、かなりのことの方向が狂いました。彼の死で、またあらたな動きが始まっています。ディー博士の招来は、そのはざまにあって、とうとうかなわないことになってしまいました」  フィリエルはため息をつき、ちらりとルーンをうかがった。だが、ルーンはあまり聞いてもいなかった様子で、ひたすら噛むことに集中していた。彼は食事を忘れやすいが、食べるときには食べることしか考えないのが特徴で、なるほど一つのことに没頭しやすい研究者そのものだった。  その向こう側では、何でも食べるルー坊がいつのまにかにじり寄って、これまた没頭してお相伴《しょうばん》をしていた。ユニコーンの子がケインに突進してこないのは、食べ物を見つけたからのようだ。  フィリエルはケインに向きなおった。 「あたしには、あなたがたのことがまだよく見えないんです。そうして秘密の組織をしくことで、あなたがたは何を目指しているんです? それが、グラール国内では、反逆と呼ばれる行為だということはわかっています。でも、どう考えていいかわからないんです」  ケインは、フィリエルの言葉を真剣に受けとめた様子で、少しのあいだ考えた。 「目的とは、人の数だけ色分けできるものだと思いますが、大ざっぱにくくれば、探求する精神の自由を守るのが目的とでも言いましょうか」  そう言って、ケインはかすかにほほえんだ。 「ヘルメスの組織は、昨日や今日できたものではないんですよ。細々とした流れとはいえ、歴史をもつと言っていい古さです。グラールに女王制がしかれ、アストレイア女神による統制ができあがったときから、そこからはみだす部分として、ヘルメスは生まれたのだと言ってもいいくらいです」  フィリエルは目をまるくしたが、ケインは穏やかに続けた。 「ヘルメス党は、いわばグラールの影の王国です。これが表へ出ることはなく、光と混じり合うことはないけれども、存在には必然的なものがある。決して不思議なことではないと、わが師は言っています。師は、『補償』という言葉を使いました」 「お師匠さん?」  吟遊詩人とも師匠の話をした覚えがあり、フィリエルはなんとなく居心地が悪くなった。 「わたしどもの指導者は、ヘルメス・トリスメギストスと呼ばれます。ヘルメス・トリスメギストスは一者ではなく、つねに三者が存在します。こうした法にふれる組織ですから、一角が摘発されたときにも生き残りが期待できますし、なんといっても、研究指導者は組織運営の指導者になりませんしね」  楽しそうな表情でケインは語った。 「わたしの仕える師匠は、ヘルメスの中枢をになうと言うべき研究のヘルメス・トリスメギストスです。彼がいないことには、ヘルメスはヘルメスとして成り立たないでしょう。人々を英知に導く優れた人物ですが、そのかわり、どうしても世間一般にうとい指導者でもありますね」  フィリエルは、博士の研究を賞讃してくれた人がいると、ルーンが語っていたことを思い出した。 「ルーンはそのかたに会っているんですね——このカグウェルで?」  ケインはうなずいた。 「わたしどもはみな、彼に会えたことを喜びましたよ。師は、もう長い間ディー博士が南へ来るのを心待ちにしていました。もとはわたしどもも、グラール国内で仕事をしていたのですが、五年ほどまえから弾圧がいっそうきびしくなって、カグウェルに根拠地を移したのです。ディー博士がここへ見えたら、彼は次のヘルメス・トリスメギストスともなるべき人だと、師は言っておりました」  ケインは言葉を切ってルーンを見たが、ルーンはあいかわらず、わき目もふらずに食べ続けていた。かたわらのルー坊はすでに食べ飽き、幸せそうに丸くなっている。 「ディー博士を得ることはできませんでしたが、その弟子を救い出すには間にあって、まったく幸いしました。ルーンは驚異的な少年ですよ。博士の理論のほとんどを、すでにマスターしているのですから。だれもが目をみはるのは、これからどこまで伸びるかしれない彼の若さです。研究者はだれしも、人間の寿命は望ましい研究には短すぎると思っているものです。ところが、彼ほどスタート地点の早い者は、いまだ見たことがありません」  いくぶん肩をすくめて、ケインはフィリエルに笑いかけた。 「そういうわけで、わたしがこの少年のおもりを言いつかっているんですよ。師も、ルーンの若さにずいぶん期待をかけています」  ルーンはつまり、影の王国の王子様なのだとフィリエルは考えた。これはなかなか斬新と言うべき、衝撃的なほど新しい考えだった。もっともルーン本人は、ほめられたことさえ気にとめず、一人で黙々と食べるばかりなので、王子様に見えないどころか、鋭い頭脳の持ち主にさえ見えなかったが。  話題を変えて、フィリエルはケインにたずねてみた。 「あなたは、どうしてヘルメス党の一員になったんです。あなたも禁じられた研究をした人ですか?」 「いいえ、わたしの場合は——そう、なんとなくですね」  ケインはあっさり言った。 「親もヘルメス党の加入者でしたから、ふつうに家業をついだという感じです。古いものですから、わたしのような者も多いですよ」 「そんなものですか——」  フィリエルが拍子抜けすると、ケインはおかしそうな目で見た。 「女王陛下の意向に逆らい、在野の研究者をかくまっているということ以外は、わたしどもも並みの生活を営む者ですよ。それぞれの部署がある。なかにはあまり穏当でない役目もあるし、武《ぶ》ばったことをむねとする連中もいますが」 「ヘルメス党には、研究をする人以外にもたくさんの人がいるんですね」 「もちろんそうです」 「あたし——」  フィリエルは一度口ごもったが、思いきって言い出した。 「あたしは、たしかにディー博士の娘のはずなんですけど、知識をまったく受け継がなかったし、どうやら才能も受け継いでいないんです。だから、あなたのお師匠様も、あたしに会ったとしても失望なさるばかりだとよくわかっているんです。でも、それでもあたしが、ヘルメス党の一人になりたいと願ったら、なることができるでしょうか」  ケインはすぐには答えなかった。すると、それまで一言も口をはさまなかったルーンが顔を上げ、文句を言った。 「フィリエル、そういうことを言うのは、ぼくが食べ終わってからにしてほしかったのに」  フィリエルは聞こえなかったふりをして、ケインに向かって言葉を重ねた。 「研究はできなくても、その手伝いや簡単な助手はいろいろコツがわかっています。そういう人たちのめんどうの見方も。セラフィールドの天文台で、少ない人数でずっときりもりしていたんです。あたし、女中仕事でも何でもできます。料理だけはちょっと自信がないけれど、力仕事だってします。だから、あたしを置いてもらえないでしょうか——ルーンといっしょに」  ケインは、困ったようにあごをなでた。そうすると、ぎょっとするほど吟遊詩人によく似ていた。 「……それは、よく考えた上での申し出ですか?」 「考えました」 「もっとよく、考えたほうがいいですよ」 「これ以上は無理です」  フィリエルは大きく息をした。 「歓迎されないことは怖くありません。そういうのは、けっこう慣れているんです。あたしはこれでも、周りに合わせていくのは上手なんです。きっとそのうち、みんなの役に立つこともできるようになってみせます」  ケインは帽子のつばに手をやった。 「勘違いしていますね。考えたほうがいいというのは、そういうことではありませんよ」  そのとき初めて、彼は帽子をとった。焚き火の炎に照らされた彼の瞳は薄水色をしている。フィリエルは、吟遊詩人の目の色が思い出せないことに気がついた。 「たとえば——こう言えばわかりますか。あなたがここにいることが、あらかじめわかっていたなら、わたしは、誘拐してでもつれてこいと命じられたかもしれないと」  フィリエルはきょとんとして彼を見つめた。  ルーンがかたわらで、あまり親切でない批評をのべた。 「頭わるいなあ、フィリエルって。だれがきみを女中に使えると思っているんだい」 「つまりですね、あなたが申し出たことに、わたしどもは一も二もなく飛びつくということが、わかっていないのですよ。あなたがヘルメス党にもたらすものは、それほど大きなものになります。ことによると、組織の基部を揺るがすほどのものです」  フィリエルは下を向いてしばらく考え、それからおずおずとたずねた。 「あのう……それはやっぱり、あたしが女王家の者だからですか?」 「当然でしょう。ずいぶん変わったお姫様ですね、あなたという人は」  あきれたようにケインは言った。フィリエルは少しふくれたくなった。 「あたしはお姫様じゃありません。母のエディリーンも王籍には入っていません」 「それはあまり問題ではありません。女王家は、何より血を大事にする一族だからです。一系の血筋だけを玉座にすえることを代々守っている。そのことが、アストレイア女神の機構と分かちがたく結びついている。そのことは、王宮の人々もよく承知しているはずです。その意味で、あなたはどこに生まれようとも、初代女王の血をひく限りはグラールの王女なのですよ」  ケインはまじめにさとし、フィリエルは黙ってしまった。王宮の人々がその認識でいることに関しては、思い当たることが多すぎた。 「王族の息がかかることは、ヘルメス党にとってもめずらしくありません。リイズ公爵もその一例ですが、もっと秘《ひそ》やかにかかわっている貴族もいます。政治経済の裏側の、暗躍する部分では、アストレイアもヘルメスも同じに俗世の顔をもつということです。けれども、ライアモン殿下であっても男性でした。グラール女王の一番純粋な継承権をもつ女性ではなかった」 「あたしは女王候補ではありませんってば」 「知っています。それでも、あなたはわたしどもにとってどれほどまぶしい存在か、ご自分でわかっていない」  ケインは静かに言った。 「それを承知した上でなら、おつれしますよ。あなたは、決して混じり合うことのなかった光を、闇のなかに射し入れようとしている。それがどんな効果をもたらすかは、わたしにもまったくわからないところです」  フィリエルは、こんなかたちで脅されることになるとは、正直なところ思ってもみなかった。それでも、すでに固めた決心をひるがえすほど動じたわけではなかった。 「軽はずみには思われたくありません。あたしのとる道はこの方向にしかないんです」 「行こうよ」  ルーンが手をはらってふいに言った。 「もう食べ終わったから」  ケインが少々そっけなく応じた。 「何を言っているんです。あなたは少なくとも消化を終えるまで、動けるものではありませんよ。明日の朝までだめです」 「だけど、フィリエルがそう言っているうちに行きたいんだ」  ルーンの言葉を聞いて、フィリエルは動揺が顔に出たのかと、思わず表情をとりつくろった。 「いやね。あたしは、一晩たったら考えを変えるような気まぐれ屋じゃないわよ」  ルーンが黙っているので、フィリエルは彼のかたわらへ寄ってのぞきこんだ。 「なによ、信用していないの?」  ルーンは嵐の灰色をした目で見上げ、フィリエルの手を握った。 「きみはいつか後悔するのかもしれない。たとえそうだとしても、ぼくは、もう、それを言いたくないよ。ぼくがこれから属することになる、ヘルメスの家をフィリエルに見せたいし、きみにもそこにいてほしい。天文台には似ていないけれど、ある意味では同じようなところだよ。いっしょに世界の謎を解きに行こう。ぼくは、わかったんだ——」  少し言いよどんでから、ルーンは声を小さくして続けた。 「きみはぼくが、研究第一だと思うかもしれないけれど、きみのいない世界というのは、謎を解くだけの価値もないんだよ」  フィリエルは彼の言葉を胸にしっかり刻みこんだ。ずいぶんひどい思いをして吟遊詩人の道を通ったが、今はその見返りを得て、なお山のようなおつりのある気分だった。 「それならずっと、いっしょにいようね」  ルーンの手を握り返し、フィリエルは明るい声で言った。 「あたしは、どこへでもついていくから。それが引き起こすことについては、責任をとるから。自分が何をしているか知らないなどとは言わない。でも、ルーンといっしょに、謎に向かっていきたいのよ」  ルーンは気がせくように言った。 「ヘルメスの家は、もう遠くないところにあるんだよ」  フィリエルは目を見開いた。 「遠くないって、どのくらい?」 「今から歩けば、朝がくる前に着くくらいだよ」  ケインがあきれたように鼻を鳴らした。 「まったく聞き分けのない子どもですね、この人は。何度も言いますが、朝までここを動いたりできませんよ。倒れるくせに」  フィリエルには不思議だった。 「あたしにはこの場所がはっきりつかめていないけれど、それでもここは、壁に近い、竜の出る森のなかよね。朝まで歩いても森のなかだと思うけど——違うの?」 「いや、森のなかだよ」  ルーンはいくぶん誇らしげにそう言った。 「ケイロンのずっと南の森のなかに、研究者の隠れ家があるんだ。竜を追い払う手段さえもっていれば、それほど危険はないけれど、ふつうの人は恐れて近づかない絶好の場所だよ。グラールの異端審問者も、ここまでは探しに来られないだろう。森ならば、音の出る実験もぞんぶんにできるし、なんといっても壁に近いし、竜の研究もしほうだいだし」 「森のなかに住んでいるの?」 「それほど不便じゃないみたいだよ。大きな洞穴があって、涼しいところだし」  フィリエルはしばらく考えた。それからこめかみを押さえてたずねた。 「あたしはここへ来る前に、ロウランドの奥方様から、カグウェルの森に出る山賊の話を聞かされたんだけど。もしかしてそれは、ヘルメスの人たちのことだったの?」 「そういえば、そのように呼ぶ人もいますね」  けろりとした顔をしてケインが答えた。 「ほら、言ったでしょう。武ばった連中もなかにはいますから」 (ということは、これからあたしは山賊の娘になるのか……)  思わずフィリエルは考えこんだ。  ルーンがいくらか心配そうにたずねた。 「森だとだめかな」 「そんなことないわよ」  すばやく笑顔を見せてフィリエルは答えた。ここでひくつもりはなかった。 「ルー坊にとってもいい環境になるし、ちょうどよかったのかもしれない。さっそくつれていって——ただし、夜が明けたらね」  夜はいつのときも明けるし、明日はいつのときも来るのだ。昨日は思いもよらなくても、明日は山賊にもなれるだろうと、フィリエルは考えた。  昨日のフィリエルは、夢のなかとも言えるエルロイで独りぼっちだったが、今日のフィリエルは、そばにいざなうルーンがいる。もしもこれがもう一つの夢だったとしても、フィリエルはもう目をさましたくなかった。 (行けるところまで行ってみよう……)  迷いなく思い切るには、さまざまなことを知りはじめたフィリエルだったが、それでも、自分の意志で選びとったことだけは信じられる。 (正しいか、正しくないかは答えがでない。それでもあたしには、捨てられるものとどうしても捨てられないものとがあるのだから……)  ルーンの顔を見て、フィリエルは胸につぶやいた。自分が王子様であることに少しも気づかない、影の王国の黒髪の王子は、フィリエルに譲歩してしぶしぶ言った。 「それならいいよ——夜が明けたらね」 [#改ページ] [#ここから2字下げ]    あとがき  西の善き魔女第四巻「世界のかなたの森」をお届けします。  物語も大詰めに入ってきたところです。  そろそろ、語る言葉がなくなってまいりました。  と、いうのも、物語の大詰めといえば聞こえがいいものですが、それは作者がすべてのつけを背負いこんで壁際に追い詰められて、「ぐえー」とか口ばしる情況であるのと同義だからです。毎度体験することとはいえ……決して、涼しい顔であとがきを書いているわけではございません。  ええと、作中に出てくる吟遊詩人の歌の原典紹介をしておきます。  これは、ほんもののマザーグースです。サイモン&ガーファンクルの「スカボロー・フェア」に一部が引用されていることを、ご存じのかたもいらっしゃるかと思います。わたしは中学生のころ、「スカボロー・フェア」が大好きで、英語の歌詞を必死でおぼえたものでした。若い人のために言っておくと、はるか昔、映画「卒業」のサウンドトラックで一躍有名になった歌で、最近では、中学の音楽の教科書にも採用されていたりするようです。 「スカボロー・フェア」をおぼえた何年も後になって、谷川俊太郎氏のマザーグースの訳詞集が出たときに、意味不明の歌詞の根拠はここにあったのかと、小躍りする思いで発見したのがこの歌でした。平野敬一氏の解説によると、古来、男女の謎のかけあいは求愛の一形式で、一種の相聞歌《そうもんか 》だということです……好きだなあ、そういうの。  さらに今となると、わたしが中学生のころには、パセリ以外のハーブは知らないものだったのに、昨今のハーブブームによって、セージもローズマリーもタイムも、そのへんで生を見かけるようになりましたね。これも感慨あるものです。  うちにも今は、友人にもらった一枝から根づいたローズマリーがあります。とってもかわいい子です。東京のこの夏の日照不足で、一度は枯れかけたのに、見事もちなおしました。  根づいたのが去年のちょうど、「西の善き魔女」第一巻が発売されるころだったので、願かけというほどではないにしても、ちょっとそんな気分で見守ったものですから、枯れかけたときには切なかったです。けれども現在のローズマリーくんは、また新しくきれいな若芽をどんどん伸ばしています。わたしも根性をもたなくては。 「パセリ、セージ、ローズマリー&タイム」という呪文のようなリフレインにふれると、いつもアリスン・アトリーの「時の旅人」を思い出してしまいます。これは、英米児童文学では有名な古いイギリスのファンタジーですが、舞台となる荘園屋敷の、匂いたつハーブガーデンの描写がとてもすてきなのです。エリザベス朝と現在を行き来してしまう少女を描いた、どちらかというと静かな物語ですが、荘園屋敷そのものが主人公かと思うような、情景豊かで雰囲気のある魅力的な作品です。(古い本ですが、図書館の児童書コーナーにはけっこうあると思います。評論社刊) 「ぼくにつくってくれるかい きぬのシャツ?」の訳詞は、谷川俊太郎氏の訳に拠って掲載させていただきました。わたしが所有しているものは、講談社文庫刊の「マザー・グース」全四巻(谷川俊太郎・訳、和田誠・絵、平野敬一・監修、解説)ですが、今は絶版なのかな——あまり見かけません。しかし、これはわたしの貴重な財産となっております。以前には、「これはおうこくのかぎ」も、ありがたく引用させていただきました。  わたしがマザーグースに興味をもったきっかけは、アガサ・クリスティやヴァン・ダインなどの推理小説や、萩尾望都氏の名作「ポーの一族」などですが……たいていの人がそうですよね? でも、はじめてマザーグースというものにふれた体験はもっと古く、小学校低学年に読んだ「少年少女世界名作文学」でした。昔に読んだものほどよくおぼえているものだと、このごろとみに思います。  さて「西の善き魔女」ですが、これは予定どおりだったのか予定外なのか、作者にもよくわからない状態で物語が進行しています——次巻が最終巻という予定は変わっていないのですが。フィリエルもルーンも、少しずつ変わっていく主人公たちで、二人の年齢からいっても、そうであってほしいと思っています。四巻ではあまり出番のなかったアデイルや、うわさしか出てこなかったレアンドラにも、次巻では活躍してほしいなと思っています。いくらなんでも、最終巻にはコンスタンス女王様にも出てきてほしい……と思っています。  しかし、ここまでくれば、曲がりなりにも作者であれば先が見えるだろうと思う、あなたの考えは甘いのでした。とにかく、行動力だけはあるフィリエルにつきあって、前向きにがんばっていきたいです。 [#地付き]荻原 規子  [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 底本:「西の善き魔女4 世界のかなたの森」中央公論社 C★NOVELS    1998(平成10)年11月25日第01刷発行 参考:「西の善き魔女㈿ 世界のかなたの森」中公文庫    2005(平成17)年04月25日第01刷発行 校正:TJMO 2006年11月09日作成